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限界は打ち破ることができないが壁は皆が協力すれば乗り越えられる日本電信電話株式会社(NTT) 篠原 弘道

コスト目標をはっきりさせて 経済化の研究開発を進める

聞き手:光ファイバーを使ったFTTH実現に向けた取り組みや標準化など,FTTH黎明期にどのように取り組まれていたのですか。

篠原:1978年に入社し,最初の10年間くらいは,アクセス系に光を入れるために,コストダウンの研究開発を行っていました。そのころは,光ファイバーもマルチモードファイバーでした。シングルモードファイバーはまだコストが高く,接続が大変だったからです。ファイバー自身も,ガラスのファイバーではなく,多成分ファイバーを使っていましたし,今とはいろいろな意味で違う研究開発をやっていました。
 その過程で,アクセス系にも中継系と同じ光ファイバーを入れたほうがいいだろうということになりました。アクセス系は, 普及すれば1000万世帯,2000万世帯になりますから,数が膨大になります。スタート段階では中継系にしか光が入っていませんから,中継系と別の光ファイバーを使うのはコストアップにつながるため,1985年くらいにシングルモードファイバーをアクセス系でも使っていこうという今につながる大きな方向転換が示されたのです。
 80年代から90年代初頭の日本の通信キャリア全般の状況としては,電話サービスがメインで,NTTの収入もほとんどが電話でした。しかし,NTTとしてこれから成長していくために,電話の次のサービスを考えていかなければいけないと,1994年に「マルチメディア構想」を発表しました。これは,電話だけでなく,データや映像など様々なものを家庭まで届けるような世界をNTTグループがつくっていくという宣言でした。
 マルチメディアというのは大量の情報を送らなくてはいけません。そのために,銅線や電気ではなく,光アクセスが不可欠になります。ですから,いずれはFTTHだということは,皆が共有していた概念でした。ところが,光の場合,中継系ではペイしますが,アクセス系に入れるのはあまりにもシステムコストが高かったので,コスト目標をはっきりさせて,経済化の研究開発をさらに進めました。
 一方で,当時はまだ電話社会でした。ただし,アメリカなどを見ると,日本に比べてCATVが非常に普及していました。NTTにとって提供するサービスは電話しかなくても,アメリカの場合には,電話+CATVをFTTHで提供していこうという考え方があり,実験を始めていました。
 結局,FTTHとは何だったかというと,ニワトリとタマゴの問題だったのです。光は必要性がないから高い,高いから必要性を開拓できなかったのです。中継系は距離がありますが,それでも東京-大阪なら2点だけで済みます。しかし,アクセス系は,電話局から家庭までの面になります。FTTHの導入を正当化できるシナリオが出来上がってから準備しようと思うと,何年もかかってしまいます。ですから,正当化するシナリオがない中で,いかに光ファイバーを準備しておくか。それも経済的な側面を意識しながら段階的に準備するかということが,もう1つの大きな課題でした。
 大幅なコストダウンも,1国のキャリアだけでやるのは無理があります。グローバルレベルに進めるため,イギリスとドイツに相談に行きました。最初は3カ国でしたが,当時G5と呼んでいた,フランス,アメリカを加えた5カ国で1990年くらいから標準化の議論を始めました。そのときに,キーワードとなったのが,PON(Passive Optical Network)システムでした。名前の表す通りパッシブなデバイスで構成されているネットワークです。レーザーダイオードのようなアクティブなものが途中で入っていないものを目標にしたのです。また,光を一対一に敷設すると高くなります。光ファイバーは大きな伝送容量を持っていますが,当時1人のお客様がそんなに沢山の伝送容量を必要としなかったので,1本のファイバーを複数のユーザーでシェアする仕組みにしました。標準化自体は, 今ではFSAN(Full Service Access Network)という標準化の機関ができており,26の通信事業者,33のベンダーが入るところまで広がってきています。
 最初にFTTHを実際に導入したのはドイツでした。当時,ベルリンの壁が崩壊し,東西ドイツが統一され,東のネットワークを整備していくときに,光ファイバーの導入が行われました。しかし,最終的には中止されました。ドイツの場合,石畳の下に銅線が埋設されていたので,光に換えるには大変な作業になり,そのためのトレンチングコストがかかるのがわかったからです。ですから,ドイツではFTTHではなく,FTTC(Fiber To The Curb)です。Curbは道路脇の縁石のことで,家のそばまで光で,その先は銅線で配る方式に変更したのです。
 しかし,われわれとしてはあくまでもFTTHを追求しようと考えていました。「マルチメディア基本構想」を出した以上,実際にやってみる必要があるので,1995年にいろいろなマルチメディア実験をやりました。その中にはFTTHの取り組みも入っており,PONシステムを導入しました。当時のPONシステムの速度は10メガで,一部商用化もしました。そのときサービス提供したのは,1本の光ファイバー上に電話とCATVとVOD(Video On Demand)を載せるものでした。技術的には成功しましたが,商用導入は一部の地域に留まりました。それは,CATVを含めた映像需要が広がらなかったのと,“電話”にこだわったからでした。“電話”というのはかなり厳密な定義があって,音の品質などに細かな規定がありました。従来銅線で提供していたサービスとまったく同じレベルのサービスを光で提供しようとしたのです。例えば,昔は家が停電になっても電話が通じました。電話局から電話線で電気を送っていたからです。同じことを光で実現するために,FTTHの宅内装置側に3時間停電しても動くようなバッテリーを持たせました。そのため,電話を提供するのに光とは関係ないところでコストがかかってしまったのです。そこで, 電話サービスだけで,FTTHを正当化するのは難しいことがわかりました。

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篠原 弘道

篠原 弘道(しのはら・ひろみち)

1954年生まれ。1978年 早稲田大学大学院・修士課程修了。同年,日本電信電話公社(現 NTT)入社,光アクセス技術の研究開発に従事。アクセスサービスシステム研究所長,情報流通基盤総合研究所長,研究企画部門長を経て,2014年 代表取締役副社長。2018年6月より取締役会長。

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