【重要】技術情報誌『O plus E』休刊のお知らせ

「考えさせる」という環境や教育から成功体験が生まれる理化学研究所 大森 整

もっと機械加工を本格的にやりたい

聞き手:工学分野に進まれたきっかけと,また,工学に魅了された理由などをお聞かせください。

大森:「私の発言」を拝見いたしますと,よく「カメラ小僧だった」とおっしゃっている方がおられますが,私の場合はラジオ工作でした。ずっとラジオばかり作っていました。小学校から電気工作に集中していましたので,それを仕事にできればという感じになり,他に考える余地がありませんでした。
 また,父が大学の教員でしたので,その影響もあったと思います。休日は父の研究室に行き,装置を見せてもらったり,ちょっと触らせてもらったりする環境でした。ですから,ラジオ工作がきっかけと言えばきっかけですが,元々物作りの環境にいたのが大きかったのではないでしょうか。
 学部のときには,自動制御やプログラミングをやっていました。80年代後半はロボットで物を組み立てるといった分野が伸びた時期だったと思います。そのころ,ちょうど教授になられたばかりの若い先生がいらっしゃり,その先生がロボット関係,特に制御やソフトウェアにかなり詳しいということを知り,「精密工学科」に入りました。精密工学は,機械も電気・電子もやる学科でしたが,ロボットを制御したり,そのソフトを作ったりと少し電気寄りだったように思います。
 実際に「自動組み立てロボットをやれ」と,その先生が若いときに取り組んだテーマでやり切れなかったところを卒研のテーマとして出していただきました。普通は,修士や博士の先輩が間に入ることが多いと思いますが,直接先生とやりとりしていたので,いろいろな指導を受けることができました。
 部品などを自分で工作して,実際に自動組み立てロボットを作りました。昔は「工作室」がどこの大学にもあり,そこには年配のエンジニアの方がいらっしゃって,機械の操作を教えてくれたり,学生が手に負えないことはその方が作ってくださったりしてくれていました。工作室に出入りして装置を作ることで,機械加工に関する知識が,少しずつ身に付いていきました。
 修士からは別の研究室に進むことを決心して,これまでとは違う,材料や機械加工を専門にやっている研究室に決めました。ロボットの研究もよかったのですが,ロボットの素材やハードウェアそのものを,もう少しやりたかったのです。学部時代のラボでは,どちらかというと,制御やソフトが中心で,新しい材料を削りロボットの形にして,組み立て,調整するといった,そういうハードをいじることが全体的に少なかったため,より深くハードをいじれそうだという思いや興味から,そうした雰囲気の別のラボに憧れを感じました。
 そうして,研削とか切削とか,今やっているELIDの発明に至る,いろいろな基礎研究を経て,実験装置を自分で作りながら「もっと機械加工を本格的にやりたい」という背景ができてきたのではと思います。
 修士課程に所属した研究室の教授は,大まかなテーマを与えて,どうやるかは,一切,自分で考えさせるという,スパルタ的な教育だったと思います。
 最初は,半導体材料である「シリコンウエーハをぴかぴかに削れ」とだけ言われました。「どうやるのですか?」と聞いたら,「僕がやり方を知っていたら,こういうテーマは,もう終わっているだろう。分からないから,あなたにやってほしい」と言われました。まさしくその通りですし,やる価値があることも理解していました。自分の専門ではないところを部下に新たに取り組ませるという運営手法で,専門分野を広げてこられた先生なのです。いろいろなサジェスチョンはいただきましたが,具体的なやり方は指導がなく,自分で考えなければ何も進まないため,本当に「大変なラボに来てしまった」と思いました。
 結果として1人で何でも準備していました。研削加工には砥石を使うのですが,他の学校で先生をされていた方が博士論文の研究に来られていまして,砥石を作っていました。その先生の砥石をお借りして,工作機械は学内の工作室で借り,または,会社にうかがってテストやデモ用の機械や測定装置を,週末に会社の仕事の空いているときにお借りして実験をしていました。とにかく自分で考えないと何も進みませんし,何も理解できませんでした。研究室のミーティングで,進捗を毎月報告することになっていましたので,そのときに何かしら進展がないと大変なことになるのです。
 そして, 1つでも面白そうなデータが出たときは「うまく内容を揃えて発表するように」と,とにかく学会に発表するように言われました。研究会で報告すると「あ,それちょうど良いから,今,学会はまだ申し込みが間に合うからすぐやって!」みたいな感じです。ですから,報告した当日に,学会の発表申し込みをしたことも結構あったと思います。当時は,申し込みが少し遅れても受け付けてくれましたし,「あの学会で発表すると注目度が上がるから,学会に電話しておくから,すぐ申し込んで」と言われ,あとから考えれば申込期限から1カ月ぐらいたっているのに無理やり申し込んだことも相当ありました。おかげで,常に発表するテーマとかデータとかアイデアを用意する習慣もできました。振り返れば,慣れが半分以上だったかも知れません。最近,私の研究室の学生や部下を見ると,当時の自分や周りの人からみればかなり慎重で,1つのデータを取るのに入念に準備したり,確認やデータのまとめに時間をかける人が多く,「まだ自信がないので,もう少し先にしたい」と,なかなかすぐに発表までこぎつけないこともあります。
 また,常にどこかの企業から派遣された技術者が,先生の発明を取り入れるために勉強に来ていたのですが,作業の様子を見ていまして、工作のスキルも高く段取りがうまい方が多かったため,自分のテーマとは関係なくても,ちょっと脇について,進んでお手伝いをかって出て、機械操作や段取りの仕方や治具の使いかたなどをいろいろと教えていただきました。このようなことを先生から直接教えてもらったことはありませんでしたが,「こういうニーズがあるよ」とか「こういうのが今流行ってきているんだ」などといった市場の動向については,いろいろな学会や業界で講演をされたり,多くの企業を訪問をされていらっしゃったこともあって,さすがに最先端をつかまれていたと思います。そのため,常に先見性があり,「この分野はいつか流行るから,今のうちにやっておいた方が良い」ということに,すごく敏感な方でした。
 シリコンウエーハとかガラスとかセラミックとかは,昔ラジオで工作したような材料ではなく本当に硬い材料だと実感しましたし,その難しい研削加工も結局独学でやりました。他に,当時,私のテーマにはならなかったのですが,切削加工の研究にも携わる機会を得たことがありました。近い年齢の技術者が近くにいましたので,隣でやっている作業を手伝って,直接自分のテーマではなくても勉強させていただいたり,見よう見まねで,加工方法を身に付けたりという生活でした。
 スキルは上がったのですが,このように技を磨いても,製品作りの段取りには便利なのですが,作業自体にはあまり独創性はないため,なかなか新しい研究にはなりませんでした。そのため,見よう見まねは途中でやめ,途中から自分の独自の道に進んでいったという感じだと思います。結果として「どうやれば新しい内容やアイデアが生み出せるか」と考えるようになったと思います。それは今でも,そういう習慣が身に付いたといいますか,研究スタイルそのものになっています。

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大森 整

大森 整(おおもり・ひとし)

1991年 東京大学大学院工学系研究科精密機械工学専攻,博士課程修了,工学博士
1991年 理化学研究所 入所 素材工学研究室研究員
2001年 理化学研究所 素材工学研究室主任研究員,以後,同 大森素形材工学研究室 主任研究員として現在に至る。
●研究分野
生産工学
●主な活動・受賞歴等
1997年 大河内記念技術賞
1999年 全国発明表彰経団連会長発明賞
2000年 日本機械学会生産加工・工作機械部門業績賞
2003年 文部科学大臣賞(研究功績者)
2003年 市村学術賞貢献賞
2003年 精密工学会蓮沼記念賞

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