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光技術の行き着くところは,結局のところ健康問題だと思います。浜松ホトニクス(株) 晝馬 輝夫

会社の成長とトヨタ自動車

 われわれが事業を始めた頃は,光産業はまだ隅にいる脇役でしかありませんでした。ですから,浜松の田舎で職人を集めて好き勝手なことをやっていてもそれで良かったのです。しかし,光技術は昭和30年代の後半から徐々に時代の主役になっていきました。このような状況のなか,時代の流れに乗るには,やはり事業の拡大が必要になります。そこで,体力のある会社にしなければいかんということで,昭和59年に株式の店頭公開をしたのです。店頭公開するわけですから,当然,証券会社の方々が「主幹事は当社へお願いします」と何社も来られるわけです。当時私は,店頭公開のことをあまり知らなくて,来る会社来る会社に「はいよ」と返事をしておいたのです(笑)。これは後から知ったのですが,主幹事というのは株式の発行から売買まですべてを取り仕切る会社で1社だけなのです。この時は,いろいろな証券会社に「はいよ」と言ってましたから当然もめます(笑)。それで,実際に主幹事会社を決めるとなった時に各証券会社から「冗談じゃないよ」となったのです。そのときは,これはえらいことになったと思いました(笑)。なかには,「いまさら変なことをするなよ,いつも月夜の晩ばかりじゃないんだぜ」とすごんでいたのもいました(笑)。
 そのようなことで困っていたのですが,当時トヨタ自動車の経理で大番頭をやっていた花井さんという方がいまして,その花井さんとは遠戚だった関係で,これは一つ相談してみるかということで相談に行ったのです。そうしたら「わかった」と言ってくれて,いろいろとしてくれたのです。どのようなことをしたのかわかりませんが,どこからも文句はこなくて,その時は「やはりトヨタ自動車の力というのは相当なものだ」と思って感謝したことがあります。
 その後も花井さんにはいろいろとお世話になったのですが,ある時花井さんが「お前は店頭公開だなんて言っているけれど,いったいいくら欲しいのだ」と言うのです。当時の金額で「いや,せめて200億円もあればいいのだが」と答えると「なんだ子供の小遣いみたいだな」と言うわけですよ(笑)。トヨタの年間利益から見るとわずかなものですから。
 それで,ああだこうだとやっているうちに,花井さんが「おまえ1回豊田英二さんに会え」と言うのです。12月のことでしたが,英二さんが海外に行くというので,その直前に東京本社に行って話をしたのです。その話のなかで,私は「うちの会社でやっていることは口ではなかなか説明しにくいから,豊田(愛知県)のほうにお帰りになるときにでも浜松に寄ってください」とお願いしたのです。そうしたら,確か1月の20日過ぎ頃だったと思うけれど,突然英二さんから電話がかかってきて「今から見に行くからな」と言われたのです。それで大あわてで,東名高速のインターまでお迎えに行き会社を案内したのです。
 英二さんはあまりものを言わない人で,時々,にやにやっと笑っていたのを覚えています。それで,最後に研究所用に買ってあった土地に案内して「この土地を買ったのだけれども,建物を建てるお金がないんです」と言ったのです。でも出資してくれとは一言も言わなかった。
 そのようなことがあってから2月の半ば過ぎになって突然連絡があったのです。第三者割り当て株の時価発行をしろと。トヨタで200万株を持ってやるというのです。それで,うちの経理がいそいでトヨタと交渉に行ったのです。そのおかげで中央研究所を建てることができました。
 この時は条件がありまして,トヨタ側は経理経営にはいっさい口を出さないけれど,光技術で自動車に使えるものがあったらそのときは頼むぞというものでした。

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