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光学技術や精密工学技術のいろいろな領域で 世界のトップレベルまで引き上げなければいけない という使命感みたいな気持ち(前編)元(株)ニコン 鶴田 匡夫

この人たちの仲間に入れてもらえればハッピーだと感じた

聞き手:日本光学(現ニコン)に入社するきっかけは何でしたか。

鶴田:偶然がいくつか重なった結果です。1955年大学4年の夏休みがまだ終わらない8月下旬に,修士入試の要領などが掲示してあるかと教室に顔を出したところ,日本光学が来春卒業予定の物理学科の学生を1名募集しているから,会社の見学を希望する者は申し出るようにとの小穴先生のメモが貼り出されていました。ものは試しとばかりに先生のお部屋にお伺いして,物理卒の先輩の方々にお会いする手はずを整えていただきました。
 次の週に,大井町にある当時まだ戦時中の迷彩が残ったままの本社・工場を訪問し,脇本さん(『第7・光の鉛筆』36 ,1996年没)のご案内で工場を見学した後,藤野米吉さん(『第6・光の鉛筆』2 ,後の研究所長,1994年没)を始め,一色真幸さん(1950年卒,後に東京工芸大,2019年没),藤原史郎さん(1952年卒,後に東京教育大・筑波大,2012年没),宮本健郎さん(1955年卒,後に名古屋大・東大)に初めてお会いしたのでした。
 皆さんそれぞれに今手掛けている仕事を易しく話してくださっただけで,面接めいた質問などは一切ありませんでした。私がその前年に出版されたばかりの石黒浩三先生の『光学』を話題にすると,藤原さんだったと思うのですが,「あの本はやさしそうに見えてたいへん難しいことが書いてあるよ」とおっしゃったことを思い出します。
 当時の物理学科は定員が25人ほどで,その大部分が修士課程に進学していました。研究者を目指すか企業に就職するのかを決めるのは修士論文を書いてからでいいだろうと漠然と考えている人が多かったと思います。私もその1人でしたが,上の方々とお会いして,「この人たちの仲間に加えてもらえればハッピーだ」と感じたことでした。
 その後は小穴先生に報告して入社試験を受けたい旨を申し上げ,正規の手続きを経て役員面接を受けた次第です。昼食を片付けた後の,役員全員が揃った役員室で,これも物理の大先輩の八木副社長の質問に私が答えるだけの簡単な面接で,今では何を聞かれたかも全く覚えていません。ただ,面倒な問題を審議してもらうには昼食が終わったすぐ後が最適だという経験はその後もことあるごとに役に立ちました(笑)。
 これには後日談が2つありました。ひとつは入社が内定したとき就職担当の本多侃士先生に報告に行ったところ,「あの会社には優秀な人たちがいっているから君も大変だよ」と閻魔帳らしいものを見ながらおっしゃられたことでした。あとで聞いたところでは,昨年亡くなられた一色さんが本多先生の研究室で卒業実験をしていて,卒業時の席次が3番だったというのです。このクラスからは素粒子物理(理論)と核融合(実験)の大家を初め,後に世界をリードする学者を輩出していたのです。
 もうひとつは,私が小穴先生を介して日本光学に応募した後,クラスメート1人と,駒場で同じクラスだった工学部応用物理教室の学生が小穴先生のところに申し込みに来たけれど,先約があるので彼が落ちたら話してやると言われたそうです。
小穴先生の光学講義(幾何光学と測光学)は生意気な学生たちには人気がなく,1年先輩のクラスでは必修課目から外してもらったらしいという噂があったくらいでしたから驚きでした。以前求人行脚で大学回りをしたとき,その後素粒子や原子核理論の研究者になっていた友人から直接聞いた話でした。ほんの2~3日の違いだったようです。もう1人は別の光学会社に就職しています。

聞き手:配属先は現場だったと伺いました。

鶴田:そうです。検査部成品検査課でした。今年の新人は研究か検査との噂でしたので,ちょっとがっかりしました。しかし,どうやら物理の知識を必要とする検査業務が年々増えていて,その度に研究部の若手が駆り出されていたのを,専任者を置いて担当させようという人事だったようです。
 当時の日本光学の初任給は国家公務員上級職の約10,000円より少し高めの約14,000円でしたが,身分上はたいへん優遇されていました。入社後1年間の見習い期間を経てすぐ技師の称号を与えられるのですが,旧制中等学校や新制高等学校卒で入社した人達はその前に工手・技手を経て技師に昇格するには15年以上かかると言われていました。そのかわり,外国語(英語+ドイツ語またはフランス語)から微分方程式の解法や電気器械の簡単な修理にいたるまで,聞かれたら知らないとは答えられない雰囲気がありました。実際,入社5年目に入ったばかりの藤原さんや彼と同期入社で後に社長になる荘さんにはその頃すでに大人(だいじん)の風格が備わっていました。その一方で,現場の人達から軽く見られる技師たちも少なくないのが実態でした。こうしてはいられないと感じたものです。
 成品検査課に配属になった私の主な仕事は,当時物理の知識を必要とする新製品の検査実施要領を作って実際の検査を自ら担当することや,東京天文台をはじめ大学や研究機関から注文を受けて作った装置を現地に運んで組み立てて作動させ,立ち会い検査完了の判子をもらって来るようなものでした。前者にはカメラ用の露出計や,被写体の明るさに応じて2枚構成の簡単な絞りを自動的に開閉する,当時セレン光電池に代わって使われ始めた硫化カドミウム光伝導体を使った自動露光式8ミリカメラ(1961)があり,後者には東京天文台から受注した36インチ光電赤道儀(1960)がありました。大井町の工場内に作った仮設小屋で冬の夜空に光るベテルギウスからのファーストライトを観測したり,その星像を使ってフーコーのナイフエッジテストの写真をとったりしました。なお,量産品の検査実習では,写真レンズのハルトマン試験や顕微鏡の見え味検査などに,教科書や論文には書かれていない,むしろ職人芸に近いけれども実際には正しい理論を作れば解明できそうなケースが数多く存在することを実感したことでした。こういうことは自分ひとりでできることではないので,会社の内外とも立場や経歴の違う人達とのお付き合いが広がっていきました。技術だけでない社会勉強もできたわけです。

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鶴田 匡夫

鶴田 匡夫(つるた・ただお)

1933年 群馬県北甘楽郡富岡町(現 富岡市)生れ 1956年 東京大学理学部物理学科卒 同年 日本光学工業 (現 ニコン)に入社 1967年 工学博士 1987年 取締役 1993年 常務取締役開発本部長 1997年 取締役副社長 2001年 退任
●専門分野
応用光学
●主な受賞歴
1964年 第5回応用物理学会光学論文賞
2004年 第4回応用物理学会業績賞(教育業績)
2019年 第3回光工学功績賞(高野榮一賞)
●著書
『光の鉛筆』11冊シリーズ
『応用光学Ⅰ』(1990) 『応用光学Ⅱ』(1990)

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