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CD-R事業での最大の山場は,“CDと完全互換”という開発の方向付けと市場の創出でした。名古屋工業大学 浜田 恵美子

CD-R

聞き手:太陽誘電に入られ,配属されたのが総合技術研究所ということですが,最初に携われた研究はどのようなものだったのですか?

浜田:入社して最初の研究は,オーディオテープやビデオテープなどの磁性粉に関するものでしたが,これは研修目的ぐらいの話で,すぐに研究所長から,有機材料や光分野に関する事業を何とかしたいと言われて,入社早々光ディスクの研究に取り組むことになりました。それが1984年のことで,それから1年間は学会などに行ったりして,一人で光ディスクに関する調査をしていました。
 その翌年も最初は一人だったのですが,「そろそろ実験を始めていいよ」という話になって,会議室を一部屋もらい,そこを改造して実験室にしました。それから3カ月後に,磁気記録の方から同僚が一人来て光ディスクの研究部門は2人になり,その後また一人というような感じで少しずつ人が増えてゆきました(笑)。

聞き手:光ディスクの研究を始められて最初に取り組んだのはどのような研究だったのですか?

浜田:最初に取り組んだのは光によって変化する材料で,そういう材料・物質というのはどのようなものなのかなというところから始めました。

聞き手:当時はすでにCDが出ていたと思いますが,記録型のCDに注目されたのはどのようなところからですか。

浜田:CDが出現したときに,光ディスクをやっていた研究者というのは,次は記録型ということでやっていたと思うのです。CDのプレス技術も確立したばかりなので,これをまた「一からやり直して新しいものを」ということは誰も考えていなかったと思います。当時の技術の中で一番いいものを集めてできたのがCDでしたので,これを使って何かをしたいという気持ちがあったと思います。それでうちの場合は,オーディオテープやビデオテープを売っていましたので,その延長線上として「記録できるCD」=「Compact Disc Recordable(CD-R)」に決めたわけです。
 CD-Rを開発するにあたっては,ともかく「市場志向」で考えました。光ディスクの規格は家電メーカー主導で考えられることが多いのですが,家電メーカーは新しいプレーヤーを売るために規格を考えます。一方私たちは,プレーヤーは作っていなかったので,ディスクだけで商売をする必要がありました。そうすると,「CD-Rは昔のCDプレーヤーでも再生できますよ」と言わなければ買ってもらえません。これが私たちの宿命でした。そういった制約などが,現在のCD-Rの姿になった理由なのです。ですから,家電メーカーが規格を考えていたならば,まったく異なったものになっていたと思います。

聞き手:なるほど,確かにそうですね。家電メーカー主導で作った規格のDVD,Blu-rayは,プレーヤーの買い換えを強制させられますね。

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