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「パーソナルブランドを磨こう!」シグマ光機(株) 代表取締役社長 森 昤二

創業の機が熟す

聞き手:モリトクでのお仕事はどのような内容だったのでしょうか?

:光学研磨をなりわいにしようとしましたが,技術に関する資料はほとんどなく個々人のノウハウの固まりであり,わたしのように板ガラス工場しか経験していない者にはどうしようもありませんでした。しかし,運というものはあるもので,兄の知人より結晶の手磨きを教えてもらうことになりました。わたしより7歳若い方ですが,わたしから見れば「光学研磨の神様」のような存在でした。仕事を確保するための営業をしつつ,兄の知人の指導を受けながら生活費を稼いでいくことになりました。結局,約3年にわたって指導を受けることができました。  手磨き結晶研磨は研磨機がなくても加工できるために投資が少額で済みますが,腕は重要です。生産用の小道具としては,手押し切断機やダライ盤,手磨き用ピッチ皿,研磨剤,測定器としては,ノギス,マイクロメーター,ニュートン板,オートコリメーター等があればスタートできました。しかし,セントラル硝子時代に貯めた汗と涙の命金(いのちがね)もほとんど底を突き始め,田舎の生活を楽しむ余裕は一切なく,食わんがための死にもの狂いの努力が始まりました。
 光学研磨の対象は大学や国公立の研究所における電気,通信関連の分野向けに,LiNbO3やLiTaO3のような通信用光学結晶,SiやGaPのような半導体結晶,ピエゾ材料などでした。腕を磨き,生活費を確保しながらの営業や生産と,時は夢中の内に過ぎていきました。会社の売りは「超短納期と低価格」で,顧客の希望に合わせて一生懸命やっている間に次第に信用が蓄積されていきました。休日は正月1日だけで,朝9時より夜2時,さらに必要とあらば徹夜も辞さず,精度については絶対に手抜きせず,ひたすら短納期に徹しました。やがて研磨機を買うことができ,竹やぶの工場も増設され,新しいスタッフも加わり,さらに兄の日本量子光学研究所は竹やぶ隣地に2階建ての建屋を作って,全体に少しずつ軌道に乗っていく中,仕事は次第にガラスの研磨に移行していきました。
 そういえば当時,東京・本郷の東京大学に営業に行った時,理学部に光学加工ショップがあり,定年後に大手光学メーカーの試作課からそこに移られた技能者の方と知り合い,ガラスの研磨を教えていただいたことも,古き良き時代の思い出です。

聞き手:シグマ光機創業者の1人である杉山氏とはどのようにして仕事上の関係ができたのでしょうか?

:話は前後しますが,1973年6月に杉山氏はナルミ商会を退職し,自宅がある埼玉県川越市で機械加工の個人会社である杉山製作所をスタートさせていました。ナルミ商会自体は当時,光学測定器の生産を大量に抱えていましたので,ナルミ商会からいただいた機械加工の仕事はたくさんありました。また,兄も設計した光学機器の機械加工を杉山製作所に依頼していました。しかし,兄はいつまでも特注品だけでは会社が発展できないと考えて,光学基本機器(標準品)の図面は抜け目なく準備していました。
 1976年ごろから,地の利があった理化学研究所に盛んに営業に行くようになり,同研究所から,「輸入品の高価なミラーホルダーを国産化して安く,高精度にできないか」という相談を受け,設計は兄,機械加工は杉山製作所という組み合わせで試作が始まりました。不思議なことに先行の他社と営業がバッティングすることなく,研究所の先生方とは製品精度や加工技術の討論で急速に懇意になることができました。ミラーホルダー類の立ち上げや,光学素子の標準品に対するアイデアの萌芽(ほうが)は,この時に始まりました。まさに,少しずつマーケットが拡大して目先が見えるようになり,力を結集して効率を上げていくために,日本量子光学研究所とモリトク,杉山製作所の3社を合体すべき時期になっていたのです。
森 昤二(もり・りょうじ)

森 昤二(もり・りょうじ)

1968年に名古屋大学 大学院工学研究科修士課程を修了。同年,セントラル硝子(株)に入社。松阪工場のフロート板ガラス生産ラインに配属。1972年に同社を退職して,兄の森基氏が経営する(株)日本量子光学研究所に入社。1973年にモリトクを起業。1977年にシグマ光機を森基氏,杉山茂樹氏とともに設立し,取締役に就任。1989年に同社 専務取締役。1993年,同社の海外子会社である上海西格瑪光机有限公司の董事長総経理(2006年まで)。1999年,同じく海外子会社のオプトシグマコーポレーションのCEO(2003年まで)。2006年に同社 代表取締役社長に就任し,現在に至る。

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