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研究はフェーズによって立場を変えることが大事プライム・オプティクス(株) 有本 昭

東大から日立,そしてペンタックス,プライム・オプティクスへ

聞き手:昨年のことになってしまいますが,光産業技術振興協会(光協会)の創立30周年記念功労者表彰のご受賞,誠におめでとうございます。

有本:ありがとうございます。

聞き手:表彰の理由は「ISO/TC172委員長など標準化事業への長年に亘る貢献」とのことですが,そうしたところも追ってうかがわせてください。
 経歴に沿ってお話をお聞きしたいのですが,まず,大学ではどのようなご研究をされていたのでしょうか?

有本:大学院の研究室は東京大学の生産技術研究所でした。小瀬輝次先生と小倉磐夫先生(ともに故人)のお二人が面倒を見られている研究室に所属していました。小倉先生はわたしが後に就職することになる日立製作所のご出身でした。小倉先生は,日本で最初にHeNeレーザーを開発した方です。わたしが日立に入る2,3年前に大学に戻られて,直接ご指導いただき,その後も含めいろいろ大きな影響を受けた先生でした。
 大学では,Krイオンレーザーの研究をやりました。併せてKrレーザーによる4色を利用したカラーホログラムの研究も行いました。修士課程以降,家の事情もあって博士課程には進まず,小倉先生に「日立に行きたい」と言ったところ紹介してくださって,見学に行ったりするうちになんとなく就職が決まっていました。

聞き手:「日立に行きたい」という理由が何かあったのでしょうか?

有本:当時,わたしは荻窪に住んでいましたが,東芝やNECもあるけれど,どうせ同じようなことをやるのなら,国分寺にある日立(中央研究所)が近くていいんじゃないかという単純な理由です(笑)。それに,小倉先生もいらっしゃった会社ですし。
 日立ではレーザーの研究をやるつもりだったのですが,最初はホログラムメモリーの研究から入りました。レーザー関係を希望したところ,入ったのはコンピューターのメモリー部門でした。当時その部門で「光メモリーをやる」という話がありまして,わたしが引っ張られたようです。当時,周りの人はみな,記録媒体としてドラムやディスク,テープなどの研究にかかわっていたのですが,「次は光かもしれない」という話が出始めたころです。磁気ディスクを研究している人たちからは,「光なんかモノにならないから遊んでいろ」という扱いを受けていましたね。3~4年ぐらい研究を続けていたのですが,確かになかなかモノにならないと感じていたころ,米IBM社がレーザープリンターを発表したのです。早速,日立もコンピューターの出力装置としてレーザープリンターをやりたいと考えたのでした。

聞き手:レーザープリンターとは,技術的にも製品的にも大きな話ですね。

有本:実は日立は,すでに関係する要素技術として,1970年の大阪万博で100インチ程度の大画面レーザーテレビというものを開発していたのです。そのようなレーザーのスキャン技術は持っていたのですが,一方,電子写真技術などはあまり持っていませんでした。それでも神奈川工場が,開発していた大型コンピューターの漢字の出力装置として「ぜひ必要」ということで,急きょ,「特研」(日立の社内横断開発プロジェクト)が組まれました。最初のプリンターが出来上がったのが1977年ぐらいです。
 「できれば幾何光学はやりたくない」と大学の研究室で言って電機会社に就職したわたしが,レーザープリンターのレンズデザインをやることになりました。これが意外とうまくいって,実機に載ったのはうれしかったですね。キヤノンの松井吉哉さん(故人)の学位論文が参考になりました。そのプロジェクトでは,電子写真関係の技術はキヤノンからノウハウを受けたのですが,結果的にキヤノンにレンズ光学系を依頼することはありませんでした。後に日立の取締役になった当時の神奈川工場の方が,「あの時,お前たちはどこでレンズを作ったんだ」とキヤノンから言われていたようです。このレンズ系は10年後に非軸非対称のレンズに進化して,機械学会賞に結びつきました。
 それで,多少仕事をやっていると会社が認めてくれたのでしょう。1980年ぐらいからレーザーディスクの仕事もやってほしいという要望が来まして,今度は横浜工場と当時戸塚にあった家電研究所と共同研究をすることになりました。そこでは光ディスクのヘッド関係の研究をやりました。ある意味,それが一番忙しく苦しい仕事だったと思います。

聞き手:どのようなところが苦しかったのでしょうか?

有本:光ディスク上にある情報をヘッドのレンズ部がキチンとトレースしなければならないのですが,雑音が発生すると制御が外れてレンズがディスクにぶつかってしまうのです。その分析と対策がなかなか難しくて,結局,1年くらいかけてようやく解決したという状態でした。その技術は,現在は特許が切れてしまいましたが,今のDVDやBlu-ray向け光ピックアップのヘッドにも使われています。
 1980年から85年ぐらいまでは,先のプリンターと光ディスクのヘッド開発の両方にかかわっていました。この時期は大変忙しかったですね。関東圏内ですが,高崎,勝田,戸塚と,工場群を北に南に駆け回っていましたから。そのうち,1992年でしたか,「日立研究所(日研)に来ないか」と声をかけられました。日研では液晶を使ったディスプレイを中心に投射型のディスプレイを開発していましたが,光学系がうまくいっていないということで,「手伝ってほしい」ということになったようです。わたしも,請われた時に行くのが一番いいと思って行きました。日研には,1992年から95年まで在籍していました。同じ日立でも全く異なる重電文化を知ることができました。
 再び中研に戻ってDVDやMOなどの開発の手伝いをしていたのですが,そのころ,「ちょっと方向を変えてみようかな」と思い立ち,ペンタックスに昔から知っている役員の方がいたので話してみたところ,3カ月ぐらいたった後に「社長が会いたいから来い」ということになりました。社長とお話をして,実際に移ったのは2001年でした。

聞き手:ペンタックスではどのようなお仕事をされたのでしょうか?

有本:光通信などシステム的な分野をやろうと思っていたのですが,ペンタックスの事業がカメラオリエントだったのでなかなか幅が広がらず,研究企画を2006年までやっていました。そんな時に心臓の手術を受けることになり,担当医から「助かったらフルタイムの仕事はやめないか」と説得されました。「どれくらいの確率で助かるのですか」と聞いたところ,「80~85%ぐらいは助かる。せっかく助けてやったのに死んだら困るから,この場でフルタイムの仕事をやめると約束しろ」と迫るのです。かなり悩みましたが,仕方なくその場で「非常勤に移ります」と約束して手術を受けることになりました。その後5年ほどたっていますが,こんな風に生き延びていますね。
 そういう状態でペンタックスの非常勤を2,3年やったあと,いろいろな縁がありまして現在のプライム・オプティクスに移りました。現在は,こちらで技術顧問としての仕事に従事しています。
有本 昭(ありもと・あきら)

有本 昭(ありもと・あきら)

1970年,東京大学大学院工学系研究科 物理工学修士課程修了。同年,(株)日立製作所に入社して中央研究所に配属。ホログラフィーおよび同メモリー装置の研究,計算機出力用レ?ザープリンターの開発,反射型プロジェクションTV光学系の開発,光学式ビデオディスクプレーヤーの開発,光磁気ディスク用光ヘッドの研究などに従事。1992年,同社日立研究所に転属。技術主管。1995年,同社中央研究所に再転属。2001年,ペンタックス?に転職し,研究企画に従事。2003年,同社フェロー(執行役員)に就任。2006年,心臓手術を期に非常勤顧問に。現在に至る。工学博士(1979年 東京大学)。電子写真学会技術賞,MOC Paper Award,日本機械学会技術賞,IS&T Charles E. Ives Award,東京都研究発明功労表彰,発明協会 関東発明奨励賞,光協会功労賞など多数受賞。前ISO TC172/SC9国際標準化委員兼ISO/IEC半導体レーザ標準化合同作業部会委員長。

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