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第29回 パリとニューヨーク

パリにて


 パリは20数年ぶりであった。2017年5月の展覧会の作品展示とオープニングに出席するためである。パリにはそれまでに長期,短期の滞在も合わせて何度か訪れていた。
 最初に訪れたのは,パリのエコール・デ・ボザールの学生として約1年絵を学ぶための留学であった。実は筆者は美術の世界に身を置くまでにはかなり遠回りをした。学部で4年間応用物理を学び,その後3年間の美術学校で西洋絵画を学ぶ。それから西洋絵画ならやはりヨーロッパに行かなくてはと何故か勝手に思い込み親を泣き落として,留学が実現したのである。貧乏学生の身分であったから,いわゆる観光旅行のような贅沢は体験していないが,パリは長い歴史の中で常にヨーロッパ大陸の交通の拠点であり,その利便性を生かしていろいろな国に足を延ばし,美術館巡りを堪能した。そこでいわゆる現在形の現代アートの強烈な洗礼を受けたのであった。ホログラフィーとの出会いは留学から帰国後まもなくの出来事である。その後のパリ訪問は常にホログラフィー作品との関わりからであった。
 留学から帰国後に再び訪問したのは,文化庁芸術家在外研修員としてアメリカに滞在していたときに,2か月ほどパリに出かけた。この時Musée de l’ Holographieで個展が開催された(本誌2018年9・10月号, p. 854掲載)。その後は1~2年に一度のペースで,ドイツ,イタリアなどでの展覧会に呼ばれるたびにパリにも立ち寄った。2度目の長期滞在(約10か月間)は,美術学校の卒業生としてパリのCité International des Arts(パリ国際芸術家都市)に第1回の派遣員として送り出されたときである。すでにホログラフィー分野での活動を開始していたので,パリの地の利を活かし,今度は制作のために国外に足を延ばした。スウェーデンのストックホルムにパルスレーザーのホログラフィースタジオがあった。スウェーデンの王立工科大学で教鞭をとっていたNils Abramson(1931-2019, Lake forest collegeのISDHでのキーパーソンの1人)の教え子たちが立ち上げたスタジオである。そこで初めてパルスレーザーによるホログラムを制作した。図1は初めてのセルフポートレートである。筆者はコンタクトレンズを装着しているのだが,瞳をよく見るとレンズがはっきりと見て取れるのには驚いた。ホログラムの再生像がいかにリアルであるかが想像できよう。シテ・デザールでは滞在の最後に個展を開催することが義務づけられていて,新作を披露した。ストックホルムで制作したパルスレーザーでしか撮影できない羽毛や毛糸(図2)などの素材を使ったホログラムと,パリで探し求めた多様な素材を組みあわせたタペストリー形態の完成作品が図3である。1987年秋のことである。翌年はハノーバー,その次の年はハンブルグ,ミュンヘンと展覧会が続き,そして1992年のセビリア万博までは毎回休暇気分でパリに立ち寄っていた。その後,イギリスや北欧に何度か出向いていたが,パリに立ち寄る機会はなかったのである。 <次ページへ続く>

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