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ペロブスカイトの成功は人のつながりがなければ成し得なかった桐蔭横浜大学工学部 大学院工学研究科教授 宮坂 力

これなら自分でベンチャーを作って売ればいい

聞き手:ベンチャー企業を設立した経緯をお聞かせください。

宮坂:ベンチャー設立のきっかけになったのは,2004年に当時の中田宏横浜市長が,横浜市に3カ年でベンチャー企業を350社の誘致創業を目指すという事業を立ち上げたことでした。当時の桐蔭学園法人の理事長が市長と親しかったこともあり,大学内のいろいろな先生方に向けてベンチャーの起業を考えろ,私のやっている太陽電池の研究でベンチャーはできないかと打診がありました。それまで私は企業にいて,企業でのことは十分にやったので,その時は考えていませんでした。
 大学ではお金がありませんでした。ただ企業でやっていた仕事で結構名前が知られていたおかげで,いろんなメーカーさんが,宮坂さんの研究をサポートします。こちらに搬入したということで宣伝にもなりますから特別に安くしますよと言っていただくこともありました。
 太陽電池の研究には,人工の太陽光となる光源が欠かせません。曇った日,雨の日でも屋内で太陽の光と同じ照度,色温度の光を出して晴天の太陽を再現する必要がありますから。ただその光源は高価で数百万円はするのですが,その時は予算が100万円しかありませんでした。
 あるメーカーさんと光源の話になり,いったい幾らお金があるのですかと聞かれ,これしかない,本来の小売値の数分の1しかないと,これはあり得ないと言ったら,それでも作ると言うのです。それで特注ですから,ここはもう要らない,ここは要らないといって,本当に必要な最低限の部分だけ作ってもらいました。
 その後,今度はまた別の会社から色素増感太陽電池の研究を,ぜひ見学させてほしいとやって来たのです。そのときに人工太陽を使ったソーラーシミュレーターを見て,どこのメーカーか聞かれて,特注品と答えると,ちょっと特性を調べさせてほしいとなりました。その結果に驚いた企業は,もし良かったら技術を買い取らせてくれませんかと言い出したのです。その言葉にびっくりしましたが,その時に「これだったら自分でベンチャーを作って売ればいいのでは」と思いついたのです。
 それで,2004年3月1日に会社を設立しました。その直後の3月末が最初の決算でしたが,1ヶ月ですでに黒字でした。
 3~4人で始めたベンチャーですがもう12年になります。なぜ成功したかよく聞かれますが,これには,いくつかのキーポイントがあると思っています。
 まずは,横浜市が税理士や起業のためのコンサルティング,公認会計士といった,起業に必要な人件費を負担してくれたこと。2つめは大学がベンチャーの部屋をくれて,場所代だけでなく光熱費といった経費も負担がいらないこと。3つ目が強力な販売ネットワークです。これはベンチャーをはじめた当初から,すでに色素増感の研究で名前が結構知られていて,技術を紹介する,相当広いネットワークができあがっていたことです。例えば,うちの研究室が主催する学会に行って, うちのベンチャーがスポンサーになってチラシを渡してとか。そうしたおかげで,すぐに買いたいという人が大勢見つけられました。低予算で,研究に使える,コンパクトな,もし不具合が見つかった時にちゃんと技術レベルで説明してくれて,かゆいところに手が届くように補修してくれる製品と企業があると。
 最後は人件費ですが,これは私がいた富士フイルムを退職した方で,太陽電池に興味を持っている方を採用しました。もう半ばリタイアしているような人なので,高い給料を出さなくても来てくれたのです。

10年かかって辿りついた10%の効率をいきなり突破

聞き手:ペロブスカイト太陽電池の研究・開発に至った経緯をお教えください。

宮坂:今のペロブスカイトの成功は,人のつながりがなければ成し得なかったと思います。何人もの人間が,道案内の標識のように関わってきています。だれか一人が欠けても,ここまでたどり着いてないと思うのです。
 最初は,私自身がこの大学に移りベンチャーをつくったことからはじまります。ベンチャーをつくった時に若い研究者を公募しました。公募で集まった研究者の1人が東京工芸大学の講師をやっていました。そして,彼は優秀な東京工芸大の学生さんを持っていたのです。
 同じころ,私は東京大学で5年間客員教授を務めることになりました。
これは,大学院での教官だった本多健一先生が東大から京大に移られてのち,そこの研究室に入った瀬川浩司先生が東大の教授になり私を招いてくれたのです。それが2005年です。
 そのときにベンチャーにいた,先程お話した,東京工芸大学出身者の若い研究者から「優秀な人が1人いるから,良かったら先生の東大のほうの研究室に紹介しましょうか」と言ってくれました。学生がいませんでしたから,優秀な学生さんなら是非にということになりました。
 それが小島陽広君でした。彼もほぼ就職が決まっていたのですが,何とか説得して入ってもらいました。そうして,とにかく太陽電池に使えそうな発電材料をやってほしいとなった時に,彼が持ってきたのがペロブスカイトなのです。
 私は何も分からなくて「何だ,これは」と聞きますと,「ペロブスカイトという無機と有機の複合化合物で,僕らはこれを薄膜にして光物性を今まで測ってきました。光を当てると非常によく光ります」というのです。だから,有機発光素子等にも使えるかもしれないと言うのです。
 富士フイルムからずっと光に感じる材料をやってきましたから,ともかく光に感じて機能を持つものであれば,光発電をする能力があるかどうかを調べようとなりました。
 まずはペロブスカイトの薄膜を色素増感太陽電池の酸化チタン膜の上に形成しました。すると,何か応答がありました。あまりにも弱くて,結局2年ぐらいかかってなんとか論文が発表できるような性能にできました。でも,あまり楽天的に考えてられず,ものすごく不安定なので,論文に書くような業績は上がるけれども,ちょっと実用化にはほど遠いなと。小島君の博士論文になりましたが,その時に,あまりにも研究内容がユニークなので,東大が一高記念賞に推薦するという話も出ましたが,締め切りが厳しいので遠慮してしまいました。今思うと,もったいないことをしてしまいました。
 このような経緯でペロブスカイトの論文が出ました。ここまでがペロブスカイトを始めたキーポイントで,誰が欠けてもだめでした。私が企業から大学に移り,ベンチャーを作ったこと。ベンチャーに来た研究者が小島君を紹介してくれたこと。小島君が私のところに来るためには,私が東京大学の先生でなければいけなかったこと。当時は私立の学費がかなり高額でしたから。私が東京大学に行けたのは瀬川先生から声がかかったこと。すべてがうまくつながったものだと思います。
 2009年に,最初の審査付き論文がアメリカの学会に出ましたが,その時も,まだこの研究がどこまで展開するかは不透明でした。論文を出しても反響は少なかったです。その後,色素増感太陽電池のいろいろな学会でも研究発表をしましたが,効率も低く,見たことのない材料で,反応はあまりありませんでした。
 その後,今はとても有名になった韓国のパク先生が,私たちの追試をしました。追試をしたのですが,不安定でうまくいかない。どうやったのかと質問があったりしまして,そうして,ついに少し安定なものを作り,性能を2倍ぐらい上げたのです。後で話す機会があったので聞いてみると,彼の博士論文のテーマがペロブスカイトだったというのです。目的は全然違ったのですが,それが太陽電池になると聞いて興味がわき追試したと。
 その次,今のシリコンに競うぐらいのところに成長したきっかけは,私の桐蔭横浜の研究室に,学部から修士と上がってきた,博士課程の優秀な学生,村上拓郎君でした。
 彼が博士号を取った後,しっかりキャリアを付けてほしいと思い,スイスのローザンヌ工科大学(EPFL),そこにはマイケル・グレッツェルという,ノーベル賞候補にもなっている色素増感の権威がいるのですが,そこを紹介しました。紹介状を送ったところ採用が決まり,彼はスイスのローザンヌ工科大学に行きました。
 そこにいたのが,ヘンリー・スネイスという若い研究者でした。彼は後に,ペロブスカイト太陽電池の最初の高い効率を発表した人です。彼は色素増感太陽電池を全部固体化する研究をしていました。色素増感太陽電池はバッテリーと同じ電解液を使います。そのため電解液が漏れたりする問題がありますが,それを全固体化する研究をやっていました。ただし,性能はあまり出ないというデメリットがありました。色素増感は10%も性能が出ますが,それを固体化するとその半分も出ない。だから,実験をする部屋も違ったわけです。ただ,村上君は彼と仲良くなっていて,毎週末のようにビールを飲みに行く飲み仲間だったのです。
 ある時,スネイスが私の論文を読んで,ペロブスカイトが面白い,不安定で膜が溶けると言うが,完全に全固体化すれば使えるのではないかと。それじゃあ少しつくってみようというところで,彼が少し有名になり,自身の出身地である英国のオックスフォード大学へ戻って教授になったのです。
 そのオックスフォードから私の研究室に,ペロブスカイトのつくり方を学ぶために大学院生を派遣したのです。2カ月ぐらいここにいまして,ペロブスカイトのつくり方を学んでオックスフォードに持って帰りました。うまくいかなくて,半ばあきらめかけていましたが,英国に戻る直前にちょっと安定化するものができて,戻って行きました。その後,いきなり効率が10%まで上がった成果を発表し,それで火が付いたのです。
 韓国のパク先生とスネイスの研究は全くつながっていませんでしたが,2人の研究がほぼ同時に出てきました。ポンポンと,花火が2つ上がったようなものです。見た人はびっくりしたでしょうね。色素増感が10年以上もかかってやっと届いた10%に,こんな固体でいきなり10%に,それも,いきなりどこの誰とも分からない人が達成した。それで,火が付いたのです。
 それが2012年で,それからはみんなが寄ってたかって研究をはじめました。その後の変化が大きく,それまでは色素増感太陽電池をやっている研究者がアジアを中心に大勢いました。日本とその周辺で活発な研究が行われていたので,アメリカは,いまさら入っていってもユニークなものはできないのではないかと少し引いていたので,あまり研究者はいませんでした。ところが,ペロブスカイトの研究成果が出た2年後には,色素増感をやっていた研究者が,ほとんどペロブスカイトに移ってきました。
 一昨年,EPFLの有力者とある学会で話したら,もう90%以上がペロブスカイトだと言っていました。1年ほど前に,ヘンリー・スネイスも,最後の色素増感の論文を出したと言っていました。
 私の研究室ではほぼゼロになっています。全部ペロブスカイトで,2週間に1本,論文を出しています。年に20本ぐらいです。


  • 軽量フレキシブルなフィルム状の
    ペロブスカイト太陽電池

  • 太陽電池の断面構造

  • ペロブスカイトの顕微鏡写真


<次ページへ続く>
宮坂 力

宮坂 力(みやさか・つとむ)

1976年 早稲田大学理工学部応用化学科卒業 1978年 東京大学大学院工学系研究科工業化学修士課程修了 1980年~1981年 カナダ・ケベック大学大学院生物物理学科客員研究員 1981年 東京大学大学院工学系研究科合成化学博士課程修了 1981年 富士写真フイルム(株)入社,足柄研究所主任研究員を経て2001年より現在桐蔭横浜大学・大学院工学研究科教授
この間 2004年~2009年 ペクセル・テクノロジーズ(株)代表取締役(兼務)
2005年~2010年 東京大学大学院総合文化研究科客員教授(兼務)
2006年~2010年 桐蔭横浜大学 大学院工学研究科長
2010年~2013年 桐蔭横浜大学研究推進部長(兼任)
●研究分野
物理化学,電気化学,光電気化学,ナノ材料工学
●主な活動・受賞歴等
2002年 (財)化学技術戦略推進機構「アカデミアショーケース」 2004年 横浜市ベンチャービジネスプラン「アカデミー賞」 2005年 Scientific American 50 selection 2009年 グリーンサステナブルネットワーク文部科学大臣賞 2012年 日本写真学会学術賞

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