【重要】技術情報誌『O plus E』休刊のお知らせ

自分の仕事に誇りをもつと同時に楽しむことを伝えたい元シチズンホールディングス(株) 社長 梅原 誠

私が好きなのは,私に歯向かう反対の人の意見をもらうこと

聞き手:日本を代表する名門時計メーカーであるシチズン時計の代表取締役としてご活躍されました。企業経営というお仕事の中で感じたことがありましたら,お聞かせください。

梅原:シチズン時計も来年が100周年記念です。最初は研究所をつくり12年でつぶれて,それを引き継いだのが,安中出身で同志社大学の創設者,新島襄を尊敬していた同郷中島与三郎翁,シチズンの創業者です。新島襄はNHKの大河ドラマで有名になりましたね。シチズンの初代社長の中島は,日本の産業というか,日本人は非常に真面目で手先が器用という特徴があるというのを見ていました。その前身の時計研究所を興したのは,日本橋の宝石商で,貴族院議員の山崎亀吉という人でした。「時計を日本でやりたい」と言ってはじめたのがきっかけです。商売ベースではうまくいきませんでした。研究所で開発した懐中時計の,名前を何と付けようかとなった時に貴族院議員仲間の後藤新平伯が「貴族や金持ちだけが持つような道具ではなく,もっと市民階級まで普及すべきだから,市民すなわち“ シチズン”というのがいいのではないか」ということで,シチズンという名前になったのです。その時計研究所製作の懐中時計を,まだ摂政だった後の昭和天皇がお買い上げになりました。時計研究所が倒産後,中島が創った後継会社の設立時会社名を,その時計の名前から採ってシチズン時計(株)としたのです。
 私の経営スタンスは,人に支えられ,育てられているというものでした。小さい会社ですが,お客さまに育てられ,それからお仲間に育てられていることを大事にしました。競合会社の, 例えば精工舎さんやCASIOさんとは,競合してお互いに情報交換して助け合っています。それはスイス勢も中国も同じです。私は時計協会の会長もやりましたので,しょっちゅう行ったり来たりしました。
 1989年から4年間機械部門のドイツ会社に駐在しました。その時にも世界の競合会社の人たちとは握手をして,情報交換をしました。それは,お互いに切磋琢磨していけばいいのではないかと思っていたからです。ですから,時計業界という小さい器の中で開発は競争すべきだし,マーケティングでも競争すべきだけれども,いろいろな人に支えられて会社が経営できているのだと思います。
 社長になってからも,相手が誰であろうが,自分の言いたいことは堂々と言います。と同時に,内部では,例えば「ここだけの話よ」とか「ここだけで仲良くやろうね」ということはないようにしていたら,経団連の理事もやることになりました。ですから,その当時は公務が10個ぐらいありました。当時の経団連会長は奥田碩さんでした。一橋の柔道部ご出身で,きついことを平気で仰るのです。これを私は好きになりました。当時,経団連のメンバーは2,500人ぐらいいました。各々が勝手なことをすると経団連の体制が守れなくなりますから会員企業が不祥事を出さないように,企業行動憲章を示されました。早速その憲章を私は自分の会社にも持ち帰って,内容を当社に事情に合わせ改訂し,CSRの組織・部門をつくりました。これは僕のわがままです。CSRをつくり私自身もちゃんとチェックをしてほしいと伝えたのです。社長がわがままで強引で独断専横をした場合でも,きちんとチェックをしてほしかったのです。
 勿論監査役も私に対して意見を言います。私が好きなのは,私に歯向かう反対の人の意見です。私にイエスというのは,悪いけれどもダメなのです。イエスというのは何にもならないので,ノーと言ってくれる連中を周りに集めないといけないと思っています。
 社長になってすぐにやったのがCSRで,これは今でも継続してやってくれています。
 私がドイツに行った時に,ドイツの拠点に連絡があり「アジアの拠点で自動車のABSの部品を作りたい」と要請があり,日本の機械部門に話を振りました。きちんと対応できて,今でもABSの部品を結構取り扱っています。出先でもアンテナをきっちり張っていれば,何か引っ掛かったときに「これはこちら」と動くことができるのです。
 ドイツにいた時に結構そういうとんちんかんな飛び込みがありました。シチズンという会社は時計が有名ですが,ほかに機械もやっています。歯車・減速器やモーター,液晶に電子部品,LEDから機械まで,さまざまな事をしている部門があり,「おまえら頑張れよ」と言っていて,かつ,それぞれが自分の道をちゃんと歩んでくれているので,こんなうれしいことはないと思っています。
 ですから,会社のメンバーには「どこにでも仕事がある。仕事をクリエートしなさい」と言っています。ただし「俯瞰的な見方もしてもらいたい」とも伝えています。あまりにも1人だけに頼っているのでなく5~6人で「やるなら徹底してやってくれ」と言っています。

失敗することは自信のもとになるから失敗していい

聞き手:これから工学分野において活躍を目指す若手研究者・技術者,学生に向けて,梅原さまの考えるものづくりの面白さや魅力など,メッセージをお願いします。

梅原:僕の好きなドイツ語で,常に新しい課題,成功してもすぐに次の課題がある“Immer neues Aufgaben”というのがあります。これは好きな言葉で,「いつかはなる」という意味です。私も人の子ですから,めげるときもあります。でも,いつかはなると。また,遺伝の法則で有名なメンデルが,“Mein Zeit wird schon kommen”と言っています。「いつかはおれのことを分かってくれる」という意味です。メンデルは,しわしわのエンドウ豆とつるつるの種類を掛け合わせて,遺伝がどうなるかを研究しましたが,なかなか検証されず,彼の死後30年後に初めて検証されたそうです。でも彼は生きているあいだ,ずっとこう言っていたわけです。だから,こういう思いで仕事をしたほうがいいと思っています。
 また,古いドイツの歌で,「あの雲のように人生を楽しみたまえ」“Freut euch des Lebens”というのがあります。これはドイツ人に言うと知らなかったりするのですが,これも私の好きな言葉です。要するに,何かやるときには心に余裕を持って楽しみながら乾坤一擲,今あなたたちがやっていることは,大事なことなんだということです。 今の若い人には「俯瞰的な視点を持て」と言っています。「俯瞰的,鳥瞰的な視点を持ちなさい。でも,あなたがやっていることもどんどん深掘りしなさい。いろんな多面的な見方をしなさい」と言ってあげても,それができないこともあります。そういう時は,一度失敗して自信を持たなければいけないと思います。失敗というのは自信のもとになるから,失敗していいのです。
 だから,常に人生を楽しんで,いろんなひずみもあるかもしれないけれども,自分の与えられているテーマに邁進してほしいですね。周りからもいろいろ言われるかもしれないですが。ただ,俯瞰性は必要です。ちょっと後戻りして見ても,また突っ込んでいくのです。ただ迷っているだけではなくて,突っ込んでもらいたいのです。そうしていると,いつかはつながるので。自分の仕事に誇りを持ってほしい。それと同時に,楽しみなさいと伝えたいですね。
梅原 誠

梅原 誠(うめはら・まこと)

1939年 岩手県生まれ 1962年 東北大学工学部 精密工学科卒業 1962年 シチズン時計(株)入社 1989年 シチズン・マシナリー・ヨーロッパGmBH社長 1993年 シチズン時計取締役 1998年 シチズン時計常務取締役 2002年 シチズン時計(株)社長 2007年 シチズンホールディングス(株)社長 2008年 シチズンホールディングス(株)取締役相談役 2009年 シチズンホールディングス(株)特別顧問 2010年 同退任
●主な活動・受賞歴等
(財)日本卓球協会顧問 
(財)日本卓球リーグ連盟名誉顧問
在京岩手産業人会顧問
東北大学機械系同窓会名誉会長
岩手県奥州市大使
岩手県花巻市イーハトーブ大使
2001年 ドイツBaden Wuerttemberg州経済賞(団体)
2006年 藍綬褒章
2010年 岩手県「県勢功労賞」

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