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サイエンスをテクノロジーに変えるにはありとあらゆる工夫をして目的を達成することシチズン時計株式会社 橋本 信幸

物理現象が分からないものは量産しない

聞き手:液晶波面制御素子を量産化することになったときがすごく大変だったということですが,そのときのことをもう少しお話しいただけますか。

橋本:途中の道筋も大変で,それから量産が始まったときも大変でした。私は白黒の液晶テレビの開発を行った後,カラーの液晶テレビの開発を行ったのです。ただ,白黒からカラーへというのはそんなに難易度は高くないです。基本的にテレビが白黒のときに出来上がっているので,それに対してカラーフィルターを作ったりとか,カラーの信号処理回路を入れたりするとできます。基礎的な開発から応用に向けて付加価値を上げるところなので,そんなに大変な開発ではなくて大体1年間ぐらいで製品化できました。
 白黒の液晶テレビを,最初は確かアメリカで売ったのです。Tandyという商社でシチズンの液晶テレビを出したならば,当時カリフォルニア工科大学(Caltech)に,今,確かスイスにいると思うのですが,サルテイスという有名な先生がいまして,その先生たちのグループが,我々の液晶を使って,光情報処理の研究を始めたのです。
 いわゆるホログラフィとかは光情報処理なのです。液晶テレビをアメリカで販売したら,Caltechで光情報処理の研究を始めたというのを見て,これだったら自分たちでやろうと思いました。当時,部長だった諸川もそれに対しては非常に賛成をしてくれました。
 ただ当時,アメリカでも大学で研究を始めたばかりで,企業でも,正式なテーマとして,計画なんて立たないです。いつから利益が出るとかというのは,そんな計画は絶対に立てられないです。私も当時は若かったので,会社のテーマの仕事をしつつ,空いている時間にやればいいだろうと。自分たちは液晶をそのまま作れるというアドバンテージがあると思っていました。なおかつ,私は大学と大学院でホログラフィの勉強をしてきたので,きっと何か面白いことができるのではないかと思って,それで液晶を使って光波面の制御をする研究を始めたのが88年頃です。
 液晶にホログラムを電気的に書き換えることによって,ホログラフィテレビを試作しようと思って,アングラ研究を始めました。90年に,いろいろと苦労したのです。ホログラフィにはものすごく解像度の高いフィルムが必要なのです。でも当時の液晶テレビの解像力というか画素のピッチが,一般的には100ミクロンとか200ミクロンぐらいです。我々は30ミクロンのものを作ったのですが,それでも実際には全然足りませんでした。そこで,いろいろな工学的な工夫をしました。空間周波数フィルターを使うとか,ありとあらゆる工夫をしました。それで,非常にプリミティブなホログラムの3D像を再生することができたのです。

ホログラフィテレビ再生像(1991年)


 それを当時,今は亡くなっていますが,MIT(マサチューセッツ工科大学)にステファン・ベントンという有名な先生がいて,そのベントン先生にこういうことができたと話をしたのです。それで,90年に,MITのメディアラボで設立5周年記念パーティーがあったときに,私は招待されて行ったのです。ベントン先生に出来上がったホログラフィテレビのビデオを見せたら,ベントン先生もその当時,ホログラフィックビデオと言っていましたけれども,同類の研究をやっていて,お互いにライバルみたいな感じだったのですね。
 ベントン先生は非常にフェアな先生で,この研究はインパクトがあるとおっしゃって,「私がやっているSPIEのPhotonics WestにPractical Holographyというセッションがあるから,発表の申し込みは過ぎているけれどもそこに出さないか」と言われて,そこで発表したのです。そのセッションで非常に話題になって,その後,日本でも朝日新聞の夕刊の科学欄に載せていただきました。アングラ研究としては,非常に注目された研究としてスタートしたことになりました。
 ただ,実は朝日新聞に載ったときに,ほとんど会社の人は知らなかったのです。それで新聞を見て会社の人がみんな知って,驚かれました。当時の研究所の所長から呼ばれて,「こんなことやっていたの? この技術はいつぐらいになったら世の中に出るんだ」と言われて,当時,私が30歳前後ぐらいのときで,私は正直に「早ければ20年後には実用化できる」と言ったら,企業で20年後というのは普通ないので,ある種あきれられたというか,感心されたという感じでした。
 その後は,何か話題になっている研究をやっているらしいと,半ば公認されながらそのままコツコツと続けてきました。ただ,自分の本当の仕事があったので,そちらの仕事をおろそかにできないですから,その中でアングラ研究を続けるのは,好きでなければできなかったなと思います。あと,幸いなことに,周りはみんな研究者,技術者なので,すぐにはお金にならなくても夢のある研究には興味を持つ人がたくさんいました。なので,例えば液晶パネルを作るときでも,普通だったら開発のテーマに沿ったパネルしか作らないのを,半ば遊びみたいなことのためにも,「じゃあ,俺がちょっとついでに作ってあげるよ」とか言って協力してくれる人がたくさんいました。それで続けてこられました。仲間に恵まれたと思います。
 ホログラフィは,夜のほうが静かで,人があまりいなくなるから振動もしないのでやりやすいのです。ですから,軌道に乗ってしまうと,毎晩家には寝に帰るだけとなります。まだ当時は独身だったので,12時前に帰ったことはなかったです。早くて1時とか2時でした。でも,それは自分が好きでやっているので苦ではありませんでした。
 それで99年頃,当時の所長で,確か前川さんという方も,私がずっと10年ぐらいやっていたわけですが,製品にして世の中に出すか,もうやめるか,どちらかにしろと言ってきました。
 世の中的に,ちょうど2000年のその頃は,本業回帰とか選択と集中とか,そのような言葉が出始めた頃です。ですから,研究のための研究ではなくて,お金とつながるとか,世の中に出せる研究テーマに集中しようというのが,世の中的にスタンダードになってきていた頃でした。
 私はホログラフィ,というか光波面制御を続けたいなと思っていました。それから,私が会社の中で結構基礎的な研究をやっていって,学会発表とか論文発表をしていたのですが,大学のときの指導教授だった大頭先生とかもいろいろ心配してくれて,会社の中で浮いているんじゃないのかとか,大学に移ったほうがいいのではないかと言ってくださいました。

朝日新聞1991年6月18日


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橋本 信幸

シチズン時計株式会社 研究開発センター 橋本 信幸

●橋本 信幸(はしもと・のぶゆき)氏のご経歴
1958年 東京都生まれ。 1983年 早稲田大学大学院理工学研究科応用物理学専攻修士課程修了。同年,シチズン時計(株)入社。技術研究所に配属。白黒およびカラー液晶TV ,レーザープリンター,光ディスク,液晶プロジェクター,電子ビューファインダー,液晶光学素子とその情報光学応用等の研究開発に従事。91年に世界初の液晶空間光変調器を用いたホログラフィ TV装置を開発。2000年よりDVD ,BD用の液晶収差補正素子を量産化。現在は,同社研究開発センターで液晶光学素子とそのバイオイメージング,計算光学,加工応用等の研究開発に従事。上席研究員。博士(工学)。
●主な活動
日本学術振興会第130委員会,同179委員会委員 日本設計工学会研究調査部会委員 3Dフォーラム幹事 科学技術・学術政策研究所(NISTEP)科学技術予測センター専門調査員 IDW(International display workshop)コア委員 OSA fellow OSA fellow member committee SPIE Photonics West プログラム委員 SPIE ,日本光学会元幹事,応用物理学会,日本時計学会会員,日本光学会ホログラフィックディスプレイ研究会前会長。
●受賞歴
三次元映像のフォーラム優秀論文賞(1996) HODIC鈴木・岡田賞(2005)(日本光学会ホログラフィックディスプレイ研究会) 光設計奨励賞(2010)(日本光学会 光設計研究グループ) 青木賞(2012)(日本時計学会)
●研究分野
液晶光学素子及びそれを用いた光波面制御,バイオーメージング,光情報機器への応用。

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