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偶然もあとから見るとほとんど必然千葉大学教授 尾松 孝茂

自分たちから積極的にきっかけをつかんで行くことが大切

聞き手:研究・開発プロセスにおいて,自信を喪失されたり試行錯誤して苦悩された苦いご経験がありましたら,是非そのエピソードをお聞かせください。

尾松:私は92年に千葉大の画像工学科に助手としてきたのですが,そのときが大変でしたね。千葉大の画像工学科というのは基本的に写真と印刷の学科でした。実験室というと2平米ぐらいの暗室ばかりが10部屋くらいあるような感じでした。そこに修士の学生が2学年で2人ずつ,学部生が4人と計8人くらいいたのですが,頂いた実験室は,6畳ぐらいの部屋一つ,それも暗室でした。暗室で使う薬品で床はボロボロ,よくわからない道具や薬品で足の踏み場もない感じでした。その整理だけで1カ月はかかりました。予算もないので,除振台を自作するために,いらなくなった自転車のタイヤチューブやU字溝を調達していました。あのときはひどかった。何回辞めようと思ったかわからない。お金はないしものはないし。学部学生の卒論のテーマすらままならない。でもなんとかしないと学生がかわいそうだし。本当にひどかった。それが4年ぐらい続きましたから。4年ぐらい暗室の中をきれいにして,とにかく自分たちで木工をして除振台を作ったりして。くぎ打ちとカンナとのこぎりはすごくうまくなりましたけど(笑)。
 そこでもやっぱり人の縁がありました。その当時,ソニーでも固体レーザーをやっていたのですが,そこに学部のときの研究室の後輩がいました。彼が見るに見かねて,ソニーで作っているレーザーダイオードを幾つか差し上げますからそれを使ってくださいと言ったのです。それを使って半導体レーザー励起の固体レーザーを組み立て始めました。そこまでは本当につらかったです。本当にものがなかった。パワーメーターがない,オシロスコープがない。スペースもない。論文を書こうにも書きようがないし,実験のしようもない。小倉先生のつてで,とある企業からものを借りたりして実験はほそぼそとやっていましたけれども,基本的には何もなかった。92年から96年は本当に不毛な時代で,論文をほとんど書いていないんじゃないかな。年に1本書けるか書けないか。今思い返してもよくやってたなと思います。
 好転のきっかけがあったのが95年です。95年に初めて単身で海外,スコットランドへ銅蒸気レーザーの国際会議に行きました。招待状が来て,招待講演をしてくれと言われたのです。それでほぼ自費で,安い航空券を探して南回りで羽田から台北,クアラルンプール,アムステルダムからエジンバラと,片道だけで35時間,機内食だけで6回ぐらい食べる長旅でした。初めての海外で,荷物が着くのかも不安でしたが,その会場でJim Piperに会いました。手紙ではやりとりしていましたが,初めて対面しました。そこで,「来る気があったらオーストラリアに来ていいよ」と言われたのです。
 きっと彼は何気なく言ったと思うのですが,彼は96年にオーストラリアで開催されたIQECという国際会議の主催に関わっていました。これはチャンスだと思い,翌年シドニーに行ってMacquarie大学を訪問しました。
 そこでちょっと研究のディスカッションをさせていただいたら,そのアイデアだったら使えるからこっちに来いと言われて,97年に2カ月ぐらい,向こうで滞在費を出してもらって仕事をしました。これが非常によかった。
 あれがなかったら,多分今はないです。向こうで2カ月やった仕事で論文を2つ3つ書けたのですが,あれは本当によかった。
 その時,一緒に仕事をしたのがJim Piperと,Judith Dawsという女性のかたで,今でも付き合いがあります。彼女と仕事をして論文を書いたときに言われた言葉を今でも覚えています。Optics Communicationsだけが雑誌ではない,インパクトファクター(IF)と被引用回数は重要なんだよと。それを意識しながら研究をしないと,どんないい仕事をしていても誰にもわからないよと。
 2カ月ぐらいオーストラリアにいたあと,Imperial Collegeに行きました。そのころはメールがあったので,Imperial CollegeのMike Damzenのところで仕事したいとシドニーからメールを山ほど送りました。そうして行ったのですが,これがつらかった。イギリス人って一見さんお断りなんです。行くと言うとウエルカムだと言うのですが,相手をしてくれない。今忙しいとか何とか言って全然相手をしてくれない。最初の1カ月ぐらいはつらかった。当時は英語も大して話せないし,交渉能力もそんなにないからほとんど実験させてくれなかった。それでこっちも作戦を考えて,学生を手なずけようとしました。
 学生を連れて毎日パブに,もう本当に毎日,べろべろになるまで学生と一緒に飲んで,その後自分のアパートに連れてきて,毎食晩飯を学生のために作って食べさせて。そうしたら,1カ月ちょっとぐらいしたころに学生が気を使ってくれて,実験室を空けてくれるようになったんです。「俺,こういうのをやりたいんだけど」って言ったら,「ああ,いいよ」って。それで,残り1カ月ぐらいでやった仕事で論文が1本出せました。それからMike Damzenの評価が変わりましたね。
 その後も2010年ぐらいまではほぼ毎年のようにシドニーとロンドンに1カ月ぐらい行っていました。そのときにはある程度共同研究や論文があったので,学振の2国間共同研究にも採択されて,もう自費ではなくなりました。それでMacquarie大学の人たちとは共著の論文だけで14~15編あるし。Mike Damzenとも共著論文が10数編あります。
 思い切って行ってみるもんだなと思っています。あれがなかったら多分今はないです,本当に。海外へ行って,海外での仕事で幾つか論文が出始めて,ようやく99年ぐらいから科研費が当たるようになって。
 やはり外国人の友達を作ることはとても重要です。向こうのカルチャーが勉強できるのと同時に,マインドもわかります。それと共同研究のネットワークというのは,何かきっかけがないとうまくいかない。向こうから声をかけてくることはまずない。日本人の名前も彼らからしてみると識別できないし,やはり自分たちから積極的にきっかけをつかんで行くことが大切です。
 もちろん何でもかんでも行けという話ではないですが,チャンスは逃さないほうがいいです。今の若い人はいろいろなサポートがあってだいぶ楽かもしれないけれども,やっぱり最後は本人が勇気を出して積極的に飛び込んでいかないとだめですね。
 それと,共同研究をしたMacquarie大学のJudith Dawesの旦那さん,よく家に遊びに行って晩飯を食べて,ビールの批判だとか酒の批判とか酒屋の議論をしていたのですが,実は彼が米国光学会(The Optical Society, OSA)で結構有名なMartijn de Sterkeでした。Optics ExpressのChief Editorとかを務めていて,その縁でOSAとコネクションができて,Optics ExpressのDeputy Editorとか,最近ではOSAの理事もやったりしています。本当に何がきっかけで海外のコネクションができるかわからないのですが,付き合いは大事にしておいたほうがいいと感じています。多分飲むのがいいんだよね,きっと(笑)。外国人との付き合いはほとんどそんな感じ,最初はやっぱり飲みニケーションです。あとはカラオケ。イギリス人はカラオケが重要ですね。音楽ってときに国境を超えますよね。
 私も挫折はありますけど,何かのきっかけがあって人が助けてくれるんです。だから,人の付き合いがすごい重要だと思うし,そのときにチャンスだと思ったらパッと飛び込んで行くことも重要です。はっきり言って偶然も,結局あとから見るとほとんど必然なんです。それがなかったらどうにもならなかったことって,本当に重要なんじゃないでしょうか。 <次ページへ続く>
尾松 孝茂

尾松 孝茂

●尾松孝茂(おまつ・たかしげ)先生のご経歴
1960年 大阪府生まれ 1983年 東京大学 工学部 物理工学科卒 1983年 ㈱オリンパスに入社 1986年 ㈱オリンパスを退社 1986年 東京大学大学院工学系研究科物理工学専攻 1992年 東京大学大学院工学系研究科物理工学専攻修了 博士(工学) 1992年 千葉大学 画像工学科 助手 2006年~ 千葉大学 融合科学研究科教授 2014年~ 千葉大学 融合科学研究科研究科長
●研究分野
量子エレクトロニクス、非線形光学、応用光学
●主な活動・受賞歴等
2016年 科学技術分野の文部科学大臣表彰 2016年 双葉電子記念財団賞 2013年 応用物理学会フェロー 2016年 The Optical Societyフェロー OSA Director At Large Optics Express,Deputy Editor Scientific Reports,Editor

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