【重要】技術情報誌『O plus E』休刊のお知らせ

エンジニアリングとサイエンスのバランスを考える東芝リサーチ・コンサルティング(株) フェロー 波多腰 玄一

影響力の大きい標準化文書

聞き手:標準化のお仕事についてはいかがでしょうか?

波多腰:1994年ごろからISOのTC172/SC9というグループにかかわっています。当時は,国内委員長が辻内順平先生で,そのあと有本昭さん(現プライム・オプティクス(株))がやっていました。有本さんが半導体レーザーに関するISO文書とIEC文書の整合という結構大変なお仕事をされていましたが,その時に「一緒にやらないか」と誘われてわたしも標準化の国内委員会に加わりました。先ほど言った半導体レーザーのビーム品質などの話もあり,いろいろ議論してなんとか整合という意味では収まったのですが,これは有本さん始めいろいろな方の努力のたまものだと思っています。一昨年の4月から有本さんから国内委員長を引き継いで,現在,SC9の国内委員長をやっています。
 標準化文書というのは,例えばワーキンググループ1だと,用語や測定方法などが含まれていて,かなり専門的な内容になります。文書を読むと「論文ではないか」というぐらいのものもたまにあります。例えば「ウィグナーの分布関数」などがそうですね。ウィグナーは量子力学の歴史で有名な人です。ウィグナーの分布関数はビーム品質に関わる話で,ビーム径やビームの広がり角を定義するところで出てきます。測定にこの式を使う人はウィグナーその人を知らなくても使えるのですが,背景となる式がそこに全部書いてあるので,「専門的な話まで書いてあるんだな」とびっくりしました。また,コルモゴロフ−スミルノフ検定」の説明も出てきますが,その使い方が間違っていて,結局,今は削除されています。その間違いを指摘したのは日本のグループだったのです。

聞き手:どのような間違いだったのですか?

波多腰:検定のやり方が書いてあったのですが,それに基づいて作った測定装置を使って測定したところ,どうも結果がおかしいという話が出てきて,それがTC172の委員会で取り上げられたのです。 1年ぐらいその部分を検討した結果,まったく間違った使い方をしていたことが分かりました。「こういう理由で間違っている」と文章を提出したのがISOで認可され,削除されることになりました。標準化文書に書かれるとそれが製品にまで及ぶのですね。そう考えると標準化というのは大変重要だと思うようになりました。

複雑なことも案外単純な原理から出発

聞き手:これからこの世界に入って来る若い人たちに向けて何か伝えておきたいことはありますでしょうか?

波多腰:わたしがシミュレーション技術をやってきた中で感じたことを言うと,1つは,どんなものごとにも理由がある,原因があるということです。これは,企業の研究開発にとって結構重要なことではないかという気がします。企業の研究開発にはスペックと納期がありますから,スペックに合わせてその納期の中で開発を完了しなければならないという制約があります。企業で使うエンジニアリングというと最適化のイメージがあるのですが,現象の原因が分からなくても最適化しようと思えばできるのです。作成条件と測定結果を見て全体を最適化すると,「こういう条件で作ればこういうものができるので,条件はこうすればいい」というような最適化はもちろんできます。時としてそれが有効な場合もあるのですが,やはり原因が分からずに最適化だけすることは危険な場合があります。最初はそれで良くても,あとで同じようなことが起こった時に基本に戻ってやり直さなければいけないので,原因を突き詰めて考えることが非常に重要じゃないかという気がします。
 シミュレーター自体を開発することとデバイスを開発することは実は非常に似ています。デバイスシミュレーターがうまく動かない場合の原因究明と,実際にデバイスを開発してなかなか望みの特性が出ない場合の原因究明は非常に似ていると思います。もし条件だけで最適化してしまうと,やはりあとから困ることがよくあります。さらに,「何か分からないからもう止めよう。別のデバイスにしよう」と原因も分からずに対象を変えてしまうのはもっと悪いことです。その場でちゃんと原因を突き詰めておくことは非常に重要じゃないかという気がします。シミュレーターの開発をやっていて,そんなふうに感じました。
 もう1つは,今の話にちょっと似ているのですが,どんなものにも根っこがあって,根っこは非常に重要だということです。言い換えると,「基本に立ち返る」ということが非常に重要だと感じています。「根っこは何だ」と把握することは非常に重要で,それができると見方が違ってくるのですね。かなり複雑に見えるものでも,その根は結構,単純な原理から出発していることが多いと思います。ですから,それを見つけることは重要なことだという気がします。
 先ほどのジャズの話で言うと,ジャズの和声には一応,理論があるのです。クラシックの和声にも理論がもちろんあり,ジャズとは全然違うものかというと,実は同じものなのです。ジャズの和声は元はクラシックの和声と同じなのですね。違うのは,基本波に対して高調波をどこまで使うかということです。和音は高調波で成り立っているのですが,クラシックの和声はだいたい7倍音まで(およびそれらのオクターブ倍音)を使います。それ以上を使うのがジャズです。ジャズでは例えば7倍音や9倍音,13倍音などを使うのですが,その三つをポンと押すだけで,結構ジャズらしい音になるのですね。ただ,一番根音――まさに先ほどの根っこの音,ルートノートというのですが,それがどれかというのが分からずに弾いていると,まったく調が分からなくなってしまうのです。例えばピアノトリオで和音を弾く時は,根音とか第五音など基本のものは弾きません。上の方だけ弾くのですが,根音を弾いているのは実はベース(コントラバス)なのです。だからベースというのは,「基本」という意味で非常に重要です。
 倍音の話をもう1つしますと,コントラバスやバイオリンなどの弦楽器の音を周波数解析すると,多くの高調波がきれいに並んでいるのが観測されます。振動に高次モードが含まれているためですが,弦楽器の弦の振動はこれらの高次モードの同期競合により,三角形に変形した弦の形状が縦方向に往復している“ヘルムホルツ波”であることを伊賀先生からうかがいました。このヘルムホルツ波について伊賀先生とシミュレーション解析をしたことがあります。音の波形ではなく,弦の形状自体が三角形になって振動しているというのは非常に不思議な感じを受けますが,シミュレーションをしてみると,確かに三角形のヘルムホルツ波が出てきます。これも実は,“弦を弾く弓の速度が一定”という極めて単純な仮定から導き出されます。不思議な現象も大本は単純という1つの例です。

聞き手:音楽とシミュレーションの間にそれほど共通点があるとは思いませんでした。

波多腰:そういう意味では,エンジニアリングとサイエンスのバランスがかなり必要じゃないかという気がします。企業はエンジニアリングだけをやっていれば良いかというと,決してそんなことはありません。特に研究開発では,エンジニアリングももちろん重要ですが,その元になるサイエンスもバランスを取りながらやっていくのが非常に重要という気がしています。

聞き手:最近の若い人たちについてはどう思われますか?

波多腰:たぶんいつの時代も言われていることでしょうが,ちゃんと指導さえすれば,皆さん結構やれるのですよね。大学生は誰でもそうです。ただ,現在は大学もだいぶいろいろ忙しくなってきて,なかなか指導が行き届いていないかもしれません。これは,企業でも同じですね。新人が入ってきた時に,昔はかなり手取り足取り指導していました。少なくとも私が入社したころはそうでしたが,今はなかなか時間がないせいもあって,昔ほど指導できなくなっているかもしれませんね。今の若い人たちはかなり能力がありますから,ちゃんと教えて能力を伸ばしてやるのが年長者の責任だと思います。

聞き手:教育側の責任も多いということですね。

波多腰:そうですね。若い人たちが楽な方に流れることはいつの時代にもあるものです。ウェブのコピー・ペーストではなく,考える習慣を身に付けることは重要ですね。

聞き手:本日は興味深いお話をありがとうございました。
波多腰 玄一(はたこし・げんいち)

波多腰 玄一(はたこし・げんいち)

1974年,東京大学 工学部物理工学科卒業。1980年,同大学大学院 工学系研究科物理工学専門課程博士課程修了。同年,東京芝浦電気(株)入社,総合研究所電子部品研究所に配属。1989年,同社 総合研究所電子部品研究所化合物半導体材料担当 主任研究員。1996年,同社 研究開発センター材料・デバイス研究所研究第四担当 研究主幹。1997年,同社 研究開発センター個別半導体基盤技術ラボラトリー 研究主幹。2003年,東芝リサーチ・コンサルティング(株) フェロー。2006年,独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター フェロー。2011年現在,(株)東芝 研究開発センター電子デバイスラボラトリー 参事(兼務),東芝リサーチ・コンサルティング(株) フェロー。独立行政法人日本学術振興会 光電相互変換第125委員会幹事,公益社団法人応用物理学会 日本光学会微小光学研究グループ運営副委員長,ISO/TC172/SC9国内対策委員会委員長。Laser Focus World Japan 社外編集顧問。

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