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これからの時代は光学やエレクトロニクス中心の物理教育であるべきではないでしょうか。東京大学 名誉教授 霜田 光一

大学院特別研究生

 昭和18年になると戦局が悪化していることがひしひしと感じられようになりました。東大の物理学科は諏訪に疎開し,文系の学生が徴兵されるに至って,われわれもある程度覚悟を決めざるを得ないと感じたものでした。雨のなか代々木練兵場で行われた学徒出陣の壮行会があったのもこの年です。
 そのような状況でしたから,大学の卒業にしても半年ほど繰り上げとなりました。夏休みを返上して授業を行い,9月には卒業し皆戦地に送られたのです。
 われわれ理系の学生に関しては文系とは少し状況が異なり,兵器開発の研究要員として残されてはいましたが,それでも大学卒業後は多くの学生が徴兵されていきました。
 同級生の多くが戦地に向かうなか,私に関しては,運命の転期というべき巡り合わせで,その年にできた大学院特別研究生として研究を続けることができたのです。大学院特別研究生というのは,大学における研究者を確保する目的で作られた制度で,その時選ばれたのは私を含めて全国で20人程度しかいなかったと思います。
 そのようなことで,大学院特別研究生として研究をすることとなりましたが,当時私がやっていたのは原子核の基礎研究でした。卒業研究は,熊谷寛夫先生の研究室でガイガー・ミュラー計数管の放電機構の研究を行っていましたから,できるならば原子核の実験を希望していたのです。しかしながら,戦時下ではそのような研究はできなくなり,最終的にはマイクロ波レーダーの研究をすることになりました。
 といいますのも,電子線回折で有名な菊池正士先生が大阪帝国大学から海軍の技研に移ってレーダーの研究を行うこととなり,熊谷先生もその研究への協力を依頼されたからです。それで,マイクロ波レーダーの研究を始めたわけです。
 昭和18年の夏頃からレーダーの理論的研究も始められ,朝永振一郎先生を始めとして,宮島竜興先生,小谷正雄先生,落合騏一郎先生,坂井卓三先生などが研究成果を挙げ,実験は海軍の技研が行いました。私の主な仕事は実験でしたが,朝永先生のグループの理論研究にもオブザーバーのような格好で顔を出させてもらいました。
今考えて見ると,一流の日本の物理学者が一堂に会しているわけですから,この研究に携わることができたことは若い研究者として非常に幸運だったと思います。

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