【重要】技術情報誌『O plus E』休刊のお知らせ

弱小メーカーのとるべき戦略を考え抜く幸運に恵まれました。(前編)モレキュラー・インプリンツ・インク 溝上 裕夫

人生の転機

聞き手:それは,ちょうど大学に入られるぐらいのときですね。

溝上:そうです。そのような時代背景があり,マイクロ波研究の道へ進んだのです。それで私が沖電気に入ったころから,マイクロ波も次世代ということで,ミリ波の研究に移っていったのです。しかしながら,当時の技術ではミリ波は実用化されませんでした。それには技術的に大きな壁があったからですが,ミリ波は高周波化により大容量通信が可能になる一方で,空気中の雲や雨によって減衰を受けるのです。さらに,高周波化によるデバイスの複雑化や高コスト化といった問題があり,光通信による大容量化の研究が始まると,ミリ波による通信の研究が廃れてしまうのです。ところが,最近になりIC技術が大幅に進歩したことで,CMOSによるミリ波の送受信が特殊な分野で使われるようになりました。「一度廃れた技術がテクノロジーの進歩で復活する」技術にはそういった面白いところがあります。私の開発した電子管は,35GHzで連続波出力100Wという世界最高記録を達成しましたが役には立ちませんでした。
 そのようなことで職場の部門が突然解散し,30歳ぐらいで仕事を失うわけです。

聞き手:今の時代,他人事ではないですね。

溝上:それで,一人一人「お前,あっちへ行け,こっちへ行け」と飛ばされていくわけです(笑)。当時は日本で半導体産業が立ち上がったばかりで,どの会社でも半導体部門は人が足りない状況でした。それで半導体屋に転向することになったのです。そこで初めて半導体の世界に入ったわけですが,年を経てから半導体の勉強をしましたから非常に苦労しました。大学の教科書から全部出直しになるわけですから,自分の不運を嘆いたわけですが,少しは学生時代にやっていましたから何とかリスタートすることができました。当時は生まれたばかりの子どもが騒いでいるところで勉強しなければいけないというようなことで,悲壮な覚悟でやっていました(笑)。
 そのころは,半導体において自分は遅れて参加の新人でしたが,何十年かたつと途中で転向したというのは問題にならないぐらいに半導体技術者としては古株になっていました(笑)。それだけ半導体の世界に入ってからの歴史と技術の発展はすさまじく,そして華々しいものがありました。今考えてみると,いい時期に転向できて自分は非常にラッキーだったと思います。

聞き手:まさに「人間万事塞翁が馬」ですね。

溝上:そういう時代ですから,いろいろなことができました。私は電子管の仕事である程度成果を上げていましたので,半導体部門に移ったときに選択肢をいくつか与えてもらいました。自分は新入社員に戻った状態ですから,ある程度研究が進んでいる部署に途中から入るような仕事は面白くないと思いましたので,当時は主流ではなかったMOS(Metal Oxide Semiconductor:金属酸化膜半導体)のグループに一新人として弟子入りさせてもらったのです。ところが,これが幸いしました。その後半導体はMOSが主流になっていくのですが,そのころはそういうことはまったく分からずに,より基本技術から学べるMOSのグループを選んだのです。それで当時のMOS型半導体の設計とプロセスの勉強をさせてもらって,その2年後にはトランジスタやダイオードを全部含めたすべての半導体の生産技術の部隊を担当することになり,MOSに専念することはできなくなりましたが,ここでも非常によい勉強と経験をさせてもらいました。半導体の製造現場というのはどのようなもので,また技術や研究課題にどういったものがあるのかということを,現場のウエハーを通して体験したわけです。そして半導体に関して発表された論文は片っ端から,大雑把でしたが目を通しました。それで,「今どんなことが話題になっているのか?」また,「どういう技術をやらなければいけないのか?」ということを現場と外部情報とで把握したのです。

聞き手:それは,昭和40年代ごろですか?

溝上:半導体への転向が1968年で,それから1971年までのことです。東大の学園紛争もその頃です。当時日本の各社は,半導体集積回路を最重要テーマの一つと位置付けており大変活気に満ちた状態でしたが,まだアメリカとの差は計り知れず,誰も日本がアメリカに追いつくなど思ってもいない時期です。そのころを振り返って見ると,日本の技術者は一生懸命でした。海外の学会へ行きますと,各社から必ず1人か2人派遣されていて,カメラを持って会場に来ています。それでバチャバチャっと写真を撮りまくって帰るわけですね(笑)。テープレコーダーを持ってきている人もいました。そのようにして情報を持ち帰ってみんなで勉強したわけです。私もその一人でした。他社の方と取材を交換したりしました。当時の日本人は大変勉強熱心でした。
 そのようなことで,学会へ行きますと,大手メーカーの技術者と一緒になるわけです。そうすると,半導体分野で後進の私は学ぶことだらけなわけです(笑)。当時は個々の企業というよりも,日本として必死に半導体の開発に取り組んでいましたらから,そのときの交友関係は今でもずっと続いており,その後もずいぶん助けられました。

聞き手:高度経済成長期の日本のメーカーの意気込みが伝わってくるような気がします。

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