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ものづくりの才能は実践により培われる三鷹光器(株) 中村 義一

遊びから学んだ望遠鏡の仕組み

中村会長:それでも遊び場は天文台なわけです。遊び道具はというと,もっぱら使われていない望遠鏡でした。明治時代に大久保利通がイギリスから買ってきたトロートン望遠鏡は,そのころはレンズも無くなっていて誰も使っていなかったので,僕はこれを小学生のときにばらしたり組み立てたり,いろいろやっていました。今はこれ,上野の国立博物館にきちんと保存されています(笑)。そして,17歳で国立天文台に就職し,ようやくちゃんとした望遠鏡を触らせてもらえて,うれしくてね。当時の望遠鏡は故障が激しくて,整備してあげなければほとんど動かない状態でしたから,それが大きな勉強になりました。

聞き手:どのような故障が多かったのですか。

中村会長:正確に時計が動かないといった故障が多かった。

聞き手:時計……?

中村会長:要するに望遠鏡というのは,24時間で正確に1回転しないといけない。星の直径が角度にしておよそ2秒ですから,2秒の誤差もあってはいけないわけです。それは非常に難しい。難しいから,当時は片方にガイド望遠鏡があり,そこに十字線が張ってありました。その星から十字線が外れないように,先生がいつもガイドしているわけです。

聞き手:ずっと追尾していなくてはならないわけですね。

中村会長:今はもっと近代的なものですけどね。
 自分は体が小さいから巨大な望遠鏡なんてちょっと無理だと思いましたし,ほそぼそとした仕事をやりたいと思って,先生に「小さい仕事をやらせてください」と頼んで時計の整備をやりました。そうしたら「整備するだけじゃあ面白くないだろうから,気の利いた時計を作れ」と言われて,約2年間時計の開発を一生懸命やりましたが,まともに完成しないまま病気になって倒れてしまいました。そのとき「先生,時計って,こんな病気をするほど難しいとは思わなかった」って言いましてね(笑)。その後,少し大きな望遠鏡を作るということになって,それから望遠鏡の方に仕事を切り替えました。

学歴の壁・同僚の嫉妬

聞き手:天文台には何年くらいお勤めになったのでしょうか?

中村会長:5年です。17歳から勤めて,22歳で辞めたのかな。

聞き手:それは自分で会社をつくられるために?

中村会長:そうではありません。やむを得ず辞めたわけで,今でも仕事で天文台へは行きますが,「わたしは天文台を裏切って辞めたのではないからね」と毎回念を押しています(笑)。

聞き手:どういう理由からだったのですか。

中村会長:あそこは当時,東大を出ていなければ一人前の給料はもらえなかったのです。当時は私立大学卒も認めなかったくらいですからね。まして私は師範学校も出ていませんでしたから。しかも年齢が17歳じゃ,どうにもなりません。給料が安いけれど,うちの親父は「勉強になるからやりなさい」と言うし,先生たちも,何とか僕をものにしてくれようと応援してくれましたから,仕事を続けて来たのですが,職場の同僚たちは,いつも僕だけが先生たちに呼ばれて良い待遇を受けていると不満を言うわけです。例えば地方での観測があるとき,望遠鏡をセットするために私が先生に付いて行くと,職場の人たちは「先生と遊びに行っている」としか思わないのです。「中村だけが観測に行って,おれたちは全然連れて行ってもらえない」と,そういうことを組合に訴える。そうすると組合も「なぜ,部長連中は中村ばかりを面倒を見るんだ」ということになり,最終的には,出張は交代で行くことになった。しかし,そういう人たちは出張というと,遊びのつもりでいるのですね。

聞き手:楽をしようとする……?

中村会長:そう,楽をする。そんな人が行っても望遠鏡はセットできません(笑)。いよいよ観測の時間になって,先生が出てきて「さあ,望遠鏡を動かしましょう」となっても,セットできていないわけですから観測はできません。それで,先生の助手などがあわてて作業して観測に間に合わせるのだけれど,先生は怒ってしまって,「何でこんな役に立たないのが来た」となる。天文台に戻って「何であんな使いものにならない者を出したんだ」と先生は課長に文句を言うのですが,組合で一律ということになったので仕方がないということで先生もあきらめはするんだけども,先生にしてみれば「そんな問題じゃない」ということになります。

聞き手:その後どうされたのですか?

中村会長:それで,5年間そのような仕事をして,あるとき「先生に迷惑もかかるし,町に出たい。もう天文台は嫌です」と先生に相談したら,日本光学(現 ニコン)の下請けの府中光学をすすめられて,そこで働くことになった。そこは,天文台にあったニコン製の望遠鏡の修理を請け負ったりしていたから,僕のような人間がいた方が都合が良かった。
 ところが,親父さんが亡くなって息子の代になったらいろいろとうまくいかなくなった。それで,天文台の先生から「天文台に戻ってこい」と言われたのだけれど,「戻りたくない」と断ったら「じゃ,自分で会社をやれ」と言われ,それでできたのが三鷹光器です。最初は三鷹光器製作所というのをつくって5年間やりましたが,いろいろあって三鷹光器製作所を閉めなくてはならない事情ができ,昭和41年に三鷹の大沢に移って現在の三鷹光器を立ち上げたのです。

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