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研究は面白いから続けられる。(後編)Marine Biological Laboratory 井上 信也

ウッズホール海洋生物学研究所

井上:プリンストン大学にいたときの1949年に初めてMBLへ行きました。MBLには團さんの友人が大勢いて,随分と良くしてくれました。当時は多くの大学がMBLに部屋を借りて研究を行っており,プリンストン大学もMBLに研究室がありました。

図1 シンヤスコープ2号

聞き手:先生は,MBLでどのような研究をされていたのですか?

井上:細胞分裂における紡錘体の働きを観察するために偏光顕微鏡の改良をやっていました。当時は,オランダの科学者ゼルニケ(1953年ノーベル物理学賞受賞)が開発した位相差顕微鏡が実用化され,生きたまま細胞を観察できるようになりました。この位相差顕微鏡を使えば細胞分裂における染色体の動きなどがはっきりと見えるのですが,紡錘体を作っている糸に引っ張られる様子までは見ることができませんでした。そのため,当時は染色体が分裂するのは,染色体に動くための“motor”があるのではないかといった説もありました。それで,偏光顕微鏡の性能をもっと良くしたら,紡錘体によって染色体が分かれる様子が観察できるようになるだろうと思って偏光顕微鏡の改良を始めたのです。
 このとき作った偏光顕微鏡は三崎臨海実験所のものと原理的には変わりませんが,光をもっと強いものにし,カメラを下に取り付けることで写真も撮れるようにしました(図1)。この偏光顕微鏡の開発にあたっては,プリンストン大学のいろいろな先生たちがくれた材料を使って作りました。
 この偏光顕微鏡で見たのが生きたユリの花粉母細胞です。ユリの花粉母細胞の細胞分裂の様子を見てみると,紡錘体を作り上げているヒモ(spindle fiber)が染色体にくっ付き,引っ張っていくところがハッキリと見えました(図2)。そして,同じようにツバサゴカイの紡錘体もこの偏光顕微鏡で観察するに至り,それまで観察されていた細胞分裂における現象は,観察標本の固定による人工物(artifact)ではないかと思われていたものが,紡錘体を作り上げているヒモによるものであると世の中に認められるようになったのです。それはともかく,私にとっては,ただ染色体を引っ張って二等分させるヒモの実在が証明できたことよりも,そのヒモを作り上げているタンパク質の糸が,低い温度やコルヒチンのような薬で可逆的に脱重合され,そうして壊れつつある糸が力を出して染色体を引っ張ることができるということを,生きた細胞の偏光顕微鏡像から提案できたことの方が大事だったと今でも考えています。

図2 シンヤスコープ2号で観察された,ユリの花粉母細胞における細胞分裂(16mmシネフィルムから印刷)。
(a)有糸分裂後期前半:染色体はスピンドルファイバーによってスピンドルポールに向かって引かれている。
(b)有糸分裂後期中間:スピンドルファイバーはスピンドルポールに向かって行くにつれ短くなり消えて行く。
(c)初期の隔膜形成体の構成:新しいフィラメントが,娘核(じょうかく:細胞分裂で新たに生じた二つの核のこと)の間に現れている。
(d)中期の核膜形成体の構成:細胞内の小腔が形成され,成長した核膜形成体の真ん中部分を隔てる細胞板に変わっている。
 Reproduced in Inou・(2008) Annu. Rev. Cell & Developmental Biology vol. 24. An Earlier version of this cin・film (1951) convinced skeptics that spindle fibers and filaments were not fixation artifacts, but truly existed in living cells.

 というのも,元来偏光顕微鏡は,鉱物結晶や繊維のように比較的大きくて中の分子がきちんと並んでいるものの測定や解析に使われていました。ところが細胞は小さいし,さらにその中の一部にしかないオーガネラには少ない数の分子しか存在しません。そしてそれらは動的に並んでいます。そのダイナミックな画像を撮り,分子のあり方を解析するのに私は偏光顕微鏡を使ったのです。

聞き手:やはり映像にして見ることができるというのは非常にすごいことですね。世界で初めて観察されたというのをお聞きして,ホログラフィー電子顕微鏡を開発し,アハラノフ・ボーム効果の実験的検証に世界で初めて成功した日立製作所の外村彰さんのことを思い出しました。

ハーバード大学へ

聞き手:先生は,その後ワシントン大学に移られていますが,それにはどのようないきさつがあったのですか?

井上:プリンストン大学で博士号を取った後に,ハーバード大学でシロアリの腸中原生動物に関する研究をしている先生の所に行こうとしたところ,その先生はあまり論文を書いていなかったので,教室の他の教授達がポスドクを取らせなかったため,そこに行くことができなかったのです。それで仕方なくカリフォルニア工科大学で遺伝子を専門に研究している先生の所に行くことにしたのですが,その直前にベネット(H. Stanley Bennett)という先生からワシントン大学に新しい講座を作ったからぜひ来なさいと誘われたのです。それで,急遽ワシントン大学に行くことになりました。

聞き手:先生はその後,一度日本に戻られていらっしゃいますね?

井上:ワシントン大学には2年いましたが,團さんが東京都立大学で新しい教室をつくるので戻って来ないかと言われ,團さんには非常にお世話になっていましたから,一度は日本へ戻って何かしなければいけないと思い,それで1953年に日本へ帰りました。しかし,当時はまだ物資もない時代で,長男のミルク代で大学の給料の半分がなくなってしまうような状況に困り,結局1年であきらめてアメリカに戻りました。

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