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研究は面白いから続けられる。(前編)Marine Biological Laboratory  井上 信也

陸軍の研究所へ

 聞き手:先生は東大を卒業された後はどちらに行かれたのですか?

井上:私は東大を卒業してすぐに陸軍の研究所に入りました。というのも武蔵高校からの同級生の一人が陸軍の技術将校として研究所に入り,私にも来ないかと誘ってくれたのです。それで陸軍の研究所に入ったら,終戦の半年ぐらい前に近衛兵として徴兵されました。近衛兵になったはいいのですが,当時はもう物資がなくて軍靴もサーベルもなく,外出したときに憲兵に服装のことでとがめられたら,なぜきちんとした兵隊の身なりをしていないのか証明する紙切れを持たされました(笑)。
 そのころはもう本当に食べ物がなくて,米の代わりにコーリャンを食べていました。そのようなことですから,われわれより先に入隊した連中の中には栄養失調で亡くなった者がたくさんいました。
 軍隊の食事にしても,普通は“早飯”で素早く食べなければいけませんが,そのころは「もうゆっくり食べていい」ということになっていました。ところが,上等兵などの古い兵隊などはこれが気に入らないらしくて,食事時はいつもイライラしていました(笑)。
 そのようなときに,東京大空襲が起こり東京が焼け野原になったため,部隊は東京から甲府に移ることになりました。その同じころに陸軍の研究所も甲府に疎開し,それで研究所の同僚と再会し,研究所へ戻って来いということで,終戦の2ヶ月前にまた研究所に戻りました。そのときは体の調子を崩しており,本腰を入れた研究はできませんでしたが,それまで研究していた赤外線ディテクターの研究を継続して行いました。

聞き手:赤外線ディテクターはどのような目的で研究されていたのですか?

井上:当時陸軍では秘密裏に「まるケ」※と呼ばれる赤外感知方式の爆弾を開発していました。その誘導装置に使われる赤外線ディテクターの開発をしていたのです。この「まるケ」は,遠い所のわずかな熱にも感知するところまで研究が進み,試作までこぎ着けたところで終戦となりました。
  • ※陸軍の略称,○の中に “ケ” の文字による。

聞き手:現代の技術につながるそのような最先端の研究が,当時の日本で行われていたことを初めて聞きました。

井上:当時開発されていたもので変わったものというと,化学で有名な水島三一郎先生などは,海軍から依頼されて微弱な信号でも反応して爆発する爆弾の開発を行っていました。

聞き手:それはいったいどのような用途に使われるのですか?

井上:これは,高射砲の届かないような高い所を飛んでくるB-29に対してのもので,風船か何かに付けてこの爆弾を空に揚げておき,B-29が近づいたらそれに反応して爆発するというものです。
 水島先生は1年近く開発をされていたのですが,微弱な信号に反応するような良いものがなかなか見つかりませんでした。それで水島教室にいた友人が私の実験室へ来て,「何か面白いものはないか」と聞いたので「それなら神経筋を使ったらどうか」と答えたのです。それで,真空管の下を切って神経筋を組み込んで実験したところ,非常に弱い信号でもそれが神経に伝わり,筋肉が“ぴくん”と動いたのです。そして筋肉の収縮がスイッチをONにするので,大きな電流を制御することができたのです。それでもうみんな大喜びしたのですが,後になって考えてみると,そんなものを空に揚げても気温が低いため使えなかったでしょう。しかし,当時は大騒ぎしていたのです(笑)。

聞き手:なかなか聞くことのできない貴重なお話ですね。

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