第4回 ニューヨーク・わんわん物語 ―MOH・A.I.R.プログラム―
アーティスト・イン・レジデンス(A.I.R.)プログラム
帰国して間もなく,アーティスト・イン・レジデンス(A.I.R.)プログラムの募集の手紙がMOHから届いた。手応えはあったのだ。プログラムの内容は,ホログラフィーの撮影設備を1か月24時間自由に使用でき,感材の支給と技術アシスタントもつくというものだった。トレードはアーティストが制作したホログラムのコピーを1枚MOHに残すこと。募集人数は年間4~5名で,応募者はアートコミティーによる審査を経て選抜される。
この情報を知った時,私は即応募した。なぜなら,ホログラムを制作できる状況を作り出すことは至難の業であったからだ。幸いにも応募は通り,1980年12月,真冬のニューヨークに出かけた。まず,ラボの鍵が手渡され,これでいつでも自由な時間に作業ができた。作業は基本的にアーティスト自身が行う。技術アシスタントはオフィスアワーのみで,必要ならば技術アシストもしてくれる。工具類の充実した工作室では被写体の制作などが可能だ。
図1は,第1回目のA.I.R.で制作したホログラム(30 cm×40 cm,ガラス乾板)のインスタレーションである。私は2色のレインボーホログラムを試みた。被写体のプラスチックのチューブはソーホーの南端,チャイナタウンと隣接するキャナルストリートを歩き回って見つけた。キャナルストリートは工具類からジャンクな物までありとあらゆる材料を売る店が軒を連ね,歩くだけでもワクワクする。
現像液は市販品でなく,最新情報に基づき薬品一品一品をオリジナルの調合で上皿天秤で測りながら作った。ホログラム1枚ごとに使い捨てのため,作業も大変だ。イメージは2種,インスタレーション用に複数のホログラムが必要であった。撮影条件が整えば,後は暗室の中での単調な流れ作業だ。しかし,撮影に油断は禁物。毎回細心の注意を払っていても,時々手痛いしっぺ返しが待っている。まったく同じ条件のつもりでも突然暗い像が現れるのが,ホログラフィーの常だ。地下のラボへいったん撮影で入ると,昼夜のわからない時間が始まる。唯一の友は,暗室に置かれたラジオで音楽を聴くことだった。このようにして,宿泊先とMOHのラボとの往復生活が約4週間続いた。
このA.I.R.プログラムは,アーティストにとって,ホログラム作品が制作できる絶好の機会である。南北アメリカのみならずヨーロッパ,オーストラリアなど各国からホログラフィーアーティストたちが応募している。募集は毎年行われるが,応募資格は少なくとも隔年以上あける必要がある。味を占めた私は,2年後にまた応募を試みた。これも首尾よく受理され,1982年夏,2度目のA.I.R.制作が実現した。この時は1981~82年にかけて,文化庁の在外研修員の資格でMITのフェローとして,ちょうどボストンに滞在していた時であった。
私はニューヨークの宿泊先にいつも苦労する。A.I.R.は旅の経費はサポートされないのだ。1か月間ホテルで過ごせるほど私は裕福な身分ではない。この時は,アメリカ人のアート仲間からありがたい話が舞い込んだ。婚約中の彼女は,私のために一時的にフィアンセの家に引っ越して部屋を使わせてくれるという。ただ1つの懸念は,彼女も婚約者もそれぞれ犬を飼っていて,もしその2匹の相性が合わなかったら,引っ越しはできないという。私の運命は犬次第だったのだが,幸い2匹は問題なく,私もめでたくマンハッタンのど真ん中に部屋を確保できた次第であった。
図1 Work N ツーカラー・レインボーホログラム(1980年)
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