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第3回 セビリアからサンパウロヘ

電車の運行が遅れていて,どうも手前の駅で降りてしまったらしい。しかし,時すでに遅かった。電車は発車し,後続列車もない。しかたなく小さな暗い駅で,やっとタクシーを見つけ乗り込んだ。そこで,我々は,はたと気が付いた。誰も自分たちが泊まっていたホテルの住所を持っていなかったのだ。唯一の記憶は,近くに大きなカテドラルがあったことだけだった。しかし,ヨーロッパの街はどこにでも教会があるし,タクシーのドライバーはスペイン語しか話さない。我々は3人ともスペイン語はペケ。私は仏語もほとんど忘れかけていて役に立たない。目的駅が隣りなのかもっと先なのかもわからず,本当に迷子状態に陥ってしまっていた。しかし,大変な状況に置かれていたにもかかわらず,3人一緒というのはなんと心強いことか(能天気でいられることか?)。この「大きなカテドラル」が功を奏し,隣りの駅で降りてしまったことも分かり,無事に事なきを得て帰還をはたしたのである。アルハンブラのオフは,冒険と発見の2日間が思い出となった。
 帰国後,セビリア関連のニュースが時々メディアに流れたが,内容はいつも,建築家の安藤忠雄が設計した木造のパビリオンと,館内には安土城天守閣の最上部(5~6階)の原寸復元がメイン展示されているといった類の紹介ばかりで,ほかの展示室はもちろんのこと,サイエンス・アートギャラリーなどが展示されている情報すらまったく伝わってこないありさまだった。
 ところで,半年の会期も半ばを過ぎたころ,JETRO(万博に出展の日本の窓口)から連絡が入った。現地のスタッフからの問い合わせで,「あなたとコンタクトを取りたいという人がいるが,連絡先を教えてよいか」というものであった。どうもブラジルの人かららしいが,詳細はよくわからない。しかし,私の作品に興味をもってくれたのなら,ぜひ連絡をとりたいと思い,二つ返事で「教えていいです」と答えた。しばらくして連絡を取り合うようになったが,それはサンパウロの芸術大学の教授からで,サンパウロで新しい表現の展覧会を企画しているので,作品を展示したいというものであった。
 結局,セビリアが縁となって,私はその後2度,サンパウロを訪れる機会を得た。それ以前に1度だけ,サンパウロビエンナーレ(1979年)で,ブラジルを訪れたが,日本とはちょうど地球の反対側に位置するブラジルに,その後2度までも招待される機会が巡ってきたことは,今思い返しても,大変ありがたく素晴らしい体験であった。そのきっかけは,1人の人物がブラジルからはるか遠いセビリア万博に出かけ,たまたま日本館のサイエンス・アートギャラリーの展示を見てホログラムに目が留まり,わざわざ私に連絡を取りたいと申し出てくれたこと,そして連絡窓口のJETROのスタッフがその問い合わせをおろそかにせず,丁寧につないでくれたことが,その後の私の活動につながっていったという不思議な縁である。
 セビリア博の展示に関してはさらに後日談が2つほどある。ISDH(International Symposium on Display Holography)が3年に1度開催され,私は皆勤で毎回参加しているが,2006年にイギリスで開催された時,ポルトガルから来た,ホログラフィーを始めたばかりという2人のアーティストに,「あなたの作品をセビリアで見た」と,声を掛けられた。私は博覧会からずいぶん時がたっていたので驚いた。それも,博覧会の会場で見て,それが私のホログラムだとよく気づいてくれたものだ。この時出会った若いアーティストは,今年6月にポルトガルのアヴェイロで開催されるISDH2018の主催者となっている。もう1つのエピソードは,同じ年の2006年に,国立台湾師範大学で大掛かりなホログラフィーの個展が開催された時のことである。会期中に,私は講演をすることになった。師範大学は,理系・文系・芸術系がすべてそろった総合大学である。講演の準備中に,「初めまして」と司会のデザイン科の先生に挨拶をしたら,「あなたの作品は今回初めてではありません。セビリアで見ました。」と返ってきた。
 日本国内では,万博に出品後も何の反応も変化も起こらなかったのだが,気付いてみたら,私は,世界の人達とホログラフィー作品を通してつながっていたことに気付かされたのである。

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