【重要】技術情報誌『O plus E』休刊のお知らせ

いろいろな経験を積むためにも学生にはできるだけ海外で洗礼を受けさせる早稲田大学 教授 中島 啓幾

物理の応用分野で,これからは情報通信系だと思った

聞き手:応用物理に進もうと思われたきっかけから教えていただけますでしょうか。

中島:話は簡単で,高校までは数学しか興味がなかったのです。数学のユニーク性といいますか,答えが一義的に決まることに引かれました。しかし大学進学を前に,数学で食べて行くというのは大変だなと,勘違いをしていました。実際にはわれわれの世代でも,数学を大学で学んでからアルゴリズム,ソフトウエアを専門にしていった人も結構いました。彼らはすごい先駆けでしたから,とても重宝がられていました。それも一つのやり方だったのかもしれないと思っています。私は大学で教鞭を執るということは全く考えていなかったので,就職に少しでも有利な応用物理学科を選びました。物理学科もありましたが,この大学は面白くて,応用物理学科を先に作っておいて,私の入学する前の年に物理学科を分けて作りました。でも,それほど物理と応用物理の厳密な区別はしておらず,どちらの学科に在籍していても,卒論はどちらの先生のところでもできるというスタイルでした。人数も当時は物理が30人,応用物理が70人,合わせて100人と少なかったので,一緒に勉強していました。ですから,純粋なフィジックスも学べましたし,エンジニアリングの基礎も学べました。
 ちょうど入学した前年が学園紛争のはしりで,学費値上げストライキのあおりを受けて前年度の卒業時期がずれ込んだために,入学時に1ヶ月の自宅待機を強いられました。そのとき以来の刎頸の友が増子寛さんで,高校の物理教師を引退後も物理教育分野で指導的な役割を続けています。彼は5月に開校するや,教員に掛け合って原書を読破すべく自主ゼミを有志とともに始めました。ひと月とはいえ,勉学に飢えていた私はその誘いに乗って,ゴールドシュタインの力学,パノフスキー・フィリップスの電磁気学などを授業の合間や,春夏の休みに仲間たちと進めました。また,1年生ながら研究室に出入りする機会も得られました。
 このときの体験をもとに,この学科では応用物理学研究ゼミナールという科目を,1年生に必修として課しています。
 就職時は,大量採用のはしりでしたが,産業や企業の成長が自分の成長と速度をともにしていた,そういう意味ではハッピーな時代でした。
 応用物理学科から就職する選択肢はいろいろありました。半導体集積回路(ICのちにLSI)が産業として立ち上がった時期でした。これからの時代は特に,情報通信が伸びるだろうと思い富士通を選びました。1972年ですから,光ファイバーが産声をあげたころで,まさに光エレクトロニクス黎明期でした。 <次ページへ続く>
中島 啓幾(なかじま・ひろちか)

中島 啓幾(なかじま・ひろちか)

1948年 東京都生まれ 1966年 麻布高校卒 1970年 早稲田大学理工学部応用物理学科卒 1972年 早稲田大学大学院理工学研究科修了 1972年~1996年 (株)富士通研究所 1984年~1996年 早稲田大学 非常勤講師 1996年 早稲田大学 教授(現在に至る) 1998年 ボストン大学 客員教授 2001年~2014年 応用物理学会日本光学会微小光学研究グループ 実行委員長 2002年~2014年 日本女子大学 非常勤講師 2003年~2005年 科学技術振興機構(JST)研究開発センタ出向 シニアフェロー 2011年~2013年 応用物理学会 理事(総務担当) 2012年 応用物理学会 春季学術講演会 現地実行委員長
●研究分野
酸化物単結晶を用いた微小光学,光導波路デバイス,光集積回路と応用
●主な活動・受賞歴等
第9回光産業技術振興協会桜井賞受賞(1993年)
第2回応用物理学会フェロー表彰(2007年)
応用物理学会微小光学研究会運営委員長(2015年~)

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