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「これなら,俺は,やりたい」と思えるようなものをつかまえさせるのが教師の役目小柴 昌俊

感度をあげる以外,他に手立てはなかった

聞き手:研究されている中で壁に当たったりしたときに,それを越えられるために何か心に思っていらっしゃることはございますか。

小柴:3,000トンの水をためて陽子崩壊を探そうという時に,アメリカでライナスたちが数倍でかいやつを始めた時は「困ったな」と思いました。それを何とかして乗り越えて勝たなければと,こちらは,分量を増やすわけにはいかないから,感度を上げてやろうというので対抗したわけでしょう。それがうまく当たってくれたのですね。私には感度を上げる以外にライナスと戦う余地はないと思いました。ところが,この玉1,000個分の予算しか文部省からは取っていませんでした。浜松ホトニクスの社長の尻をひっぱたいて,共同でこんなにでかい玉を作ったんです。では,このでかい玉1つを13万で買えるかというと,買えなかった。だけれども,もらっている金は1個当たり13万円しかないから,とにかく13万円だけを払ったわけです。そうしたら,浜松ホトニクスの社長が「先生のおかげで,うちの会社は3億,損をした」と言い続けていました(笑)。  そのうち,超新星ニュートリノの観測というのが世界中のマスコミに注目されて,「それを達成したのは,このでかい玉のおかげだ」と世界中で広まったでしょう。それで,浜松ホトニクスは一遍に世界的な大会社になってしまったわけです。ただで宣伝してもらったようなものですから,その次に社長と顔を合わせた時は,「先生。おかげさまで,私の財産は73億だ」と言っていました(笑)。その後,私がこの財団をつくる時に基本財産というのを用意するのですが,日本では,最低1億円用意しなければいけません。ところが,私がその時に持っていたのは,ノーベル賞のお金3,500万円と,その前にもらった「ウルフ賞」の500万円,合わせて4,000万円しかありませんでした。だから,私は浜松へ行って,「おい。俺みたいな貧乏人が4,000万円出すんだから,おまえさんは6,000万円出せ」と話したら,「はい」と言ってすぐに出してくださいました(笑)。 <次ページへ続く>
小柴 昌俊(こしば・まさとし)

小柴 昌俊(こしば・まさとし)

1926年 愛知県生まれ 1951年 東京大学理学部物理学科卒業 1955年 ロチェスター大学大学院修了(Doctor of Philosophy) 1958年 東京大学助教授(原子核研究所) 1963年 東京大学助教授(理学部) 1967年 東京大学理学博士取得 1970年 東京大学教授(理学部) 1974年 東京大学理学部附属 高エネルギー物理学実験施設長 1977年 東京大学理学部附属 素粒子物理国際協力施設長 1984年 東京大学理学部附属 素粒子物理国際研究センター長 1987年 東京大学名誉教授 1987年8月?1997年3月 東海大学理学部教授 1994年 東京大学素粒子物理国際研究センター参与 2002年 日本学士院会員 2003年 財団法人平成基礎科学財団設立 理事長就任 2005年 東京大学特別栄誉教授 2011年 公益財団法人平成基礎科学財団へ移行 理事長就任
●研究分野 素粒子物理学
●主な活動・受賞歴等
1985年 ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章 1987年 仁科記念賞 1988年 朝日賞 1988年 文化功労者 1989年 日本学士院賞 1997年 藤原賞 1997年 文化勲章 2000年 Wolf賞 2002年 ノーベル物理学賞 2003年 ベンジャミンフランクリンメダル 2003年 勲一等旭日大綬章 2007年 Erice賞

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