【重要】技術情報誌『O plus E』休刊のお知らせ

自分が開発したファイバーを標準にできたのは一番うれしかった大阪府立大学 大橋 正治

丁寧に意見に対して向き合って説明していく

聞き手:「ITU-Tでの標準化」に携わったとお聞きしていますがどのようなものだったのでしょうか?

大橋:昭和54年に当時の電電公社に入社して,東海村にある茨城電気通信研究所への入所が決まりました。最初はGIファイバーのモード変換係数についての研究でしたが,その後0.85ミクロンで使うマルチモードファイバーの標準がだいたい決まってきたので,長波長の1.3ミクロンで使う場合のGIファイバーのスペックを考えることになりました。そのGIファイバーのスペックを検討しはじめたころから,国内での標準化に関する打ち合わせに出るようになりました。
 その間に,1985年にコーニングがセグメントコアの分散シフトファイバーを発表して,大きな反響がありました。曲げに強くてフィールドが大きい分散シフトファイバーでしたが,日本でこれに匹敵するようなものをやれと言われたのです。
 私たちは85年ごろは分散シフトファイバーのロスを小さくしようということで,ピュアシリカコアファイバーのさまざまな研究をしていましたが,その時期からいろいろなタイプのプロファイルを考えて分散シフトファイバの設計を行うようになりました。
ねじと熱収縮チューブを組み合わせた長周期ファイバーグレーティング

ねじと熱収縮チューブを組み合わせた長周期ファイバーグレーティング

 その後86年にデュアルシェープコア型の分散シフトファイバーを発表しました。今世の中に出て使われて国際標準になっている分散シフトファイバーは,おそらくそのデュアルシェープコア分散シフトファイバーとセグメントコアの2つだと思います。
 そういうことで私は標準化としてSMの規格などをいろいろ検討をしていました。91年11月ぐらいから,当時のCCITTという国際標準化機関のSG15というところに出るように言われて,そこからが実際に会議場で主張するような役割になりました。
 その時はまだファイバーの勧告が十分に完成していませんでしたので,日本の省庁を通して勧告の寄書を提出したりということを,91年から2008年までやってきました。
 97年から2008年まで光ファイバー海底ケーブルシステムという課題のラポーターを3会期,12年間やらせていただき2008年に引退しました。
 その間いろいろありましたが,自分が研究開発してきたファイバーを標準にできたというのは,一番うれしかったです。それともう一つ,今言った分散シフトのG.653というファイバーは日本が勧告を最初に提案したものではないんです。ファイバーの勧告は,どこかが主導権を取って作るわけですが,日本はファイバーに関する勧告の主導権を取ったことはまだありませんでした。
 そのG.656というファイバーなんですが,広波長域で低分散のファイバーで日本が初めて,といいますか私がそう思っているのですが,初めて提案をして,日本の主導のもとで勧告ができたということは,私にとって非常にやっていてよかったと思っています。

聞き手:実際にはさまざまなご苦労もあったと思いますが。

大橋:そうですね。前の会合で何かが決まり課題が出たとします。そのことに対して次の会合でその解答を提示します。それに対してまた疑問が出るということの繰り返しです。とにかく相手が言ったことに対して,素直にデータを出して,適当にあしらうのではなく,ちゃんとしたその根拠と丁寧にその意見に対して向き合って説明していくという作業を,地道に行っていったことで,今回G.656ファイバーを勧告化できたと思っています。ですから,非常に時間はかかりました。
 標準化ですから,本来は技術の話なのです。だから技術的にちゃんとどこまで正当性が言えるかという話がまず一番です。技術論で標準を決めるという姿勢がまずないといけない。でも最近は,技術論があった上でも政治的な駆け引きのほうが大きいですけど。なかなかその辺は難しいです。ですから会議の後でのプライベートのところでの話し合いというのが非常に重要になっていました。
 ただ,昔の日本の代表というのはだいたい,ボランティアとして参加している人がほとんどでした。今は企業としても標準が重要だということに気付いて,仕事として見てくれるところもあると思いますが。
 欧米の人は,標準化を行うことが自分のミッション=仕事という人が多くいました。会議の最後に議長レポートが出されるのですが,そのときに自分が何かを主張したことを書いてもらうということにこだわります。そういう意味では,彼らは非常に主張がはっきりしています。俺はここでこう言ったのになんでここに書いていないのだと。それによって彼らの賃金とか評価になるという話だと思います。
 日本はどちらかというと技術者が出席しています。ただ,最近は技術論だけではなく,人との関わりや政治的な駆け引きがありますので,そのことが考えられる人選になっている気がします。昔はボランティアだったといいましたが,そのためほとんど4年の1会期で交代しているんです。これだと,先ほど言ったように,勧告まで持っていくためにみんなの疑問をつぶしていくという点では,本当に難しいです。
 私が引き継いでから,17年間やりましたが,そういう意味ではよかったと思います。そして仕事として標準化というのを認められるようになってきたことで,比較的やりやすくなったと思いますし,私の後を引き継いでいる人も,同じようにずっと続けていくのではないかと思います。
 運が良かったと思っているのは,私がファイバーの伝送特性と測定法の研究をやっていたことが,標準化のミッションに一番近かったとことだと思います。全く伝送特性とか測定を知らなかったとしたら,そこに関わってもすぐに辞めざるを得なくなっていたと思うのです。
 ボランティアと言いながらも,国際標準化会合で何か新しいものを仕入れて,その研究をする形になっていました。これを継続していけば最終的にものすごく大きな成果になることも見えていましたので,その点でも張り合いがありました。
 最近になって標準化も変わってきています。昔の標準化は,実際に事業に導入,商用化したものを標準にするというのが基本でした。今は,マーケットでどんなことが望まれているかというのを調査した上で,それにあった標準を作りましょうという話になっているんです。つまり本当に望まれているということがない限りなかなか動きにくいということです。
 たとえば,フューモードファイバーでも,今後の伝送容量が不足することが予想され新しいものに置き換えられないといけないということになれば,標準化の土俵に上がるとは思います。そういう意味で,ターゲットが決まれば,それに対する研究開発が始まりますから,標準化を進める速度も増します。そうして標準化の課題も細分化されます。
 たとえば,システムをやっている人はネットワークエレメントを並べて,伝送装置から受信装置までの許容損失であるとか分散値とか,いろいろ要求条件を決めます。それが決まり個々の部品に対しての検討課題があれば,その部品の検討をするというように細分化されていきます。
 一番重要なのは,そのシステムは本当に必要であるということが判断されれば,すぐにそこに使われる部品の標準化が始まるという感じなのです。だから,使う用途が決まらないものは標準にしないというのが,今の状況という気がします。 <次ページへ続く>
大橋 正治(おおはし・まさはる)

大橋 正治(おおはし・まさはる)

1953年 岡山県生まれ 1972年 岡山県立玉島高校卒業
1977年 名古屋工業大学工学部 電気工学科卒業
1979年 東北大学 大学院工学研究科 電気及び通信工学専攻修了
1979年 日本電信電話公社(現NTT入社)
2002年 大阪府立大学大学院工学研究科教授
●研究分野
光伝送媒体に関する研究 次世代光ネットワークに関する研究 光ファイバセンシング技術の研究
●主な活動・受賞歴等
1997年~2008年 ITU-TSG15課題18のラポータ(3会期)
2004年,2008年 Certificate of Appreciation, ITU-T
2011年 日本ITU協会賞功績賞
2013年~ IEC TC86 国内委員会 委員長

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