【重要】技術情報誌『O plus E』休刊のお知らせ

「緊急ではないが将来に重要となることを研究する」中央研究所浜松ホトニクス 常務取締役 中央研究所長 原 勉

上司には人情的な人が多くとても助けられた

聞き手:それでは,浜松ホトニクスで開発にかかわりました製品や,それに関しましたエピソードについてお教えください。

:メインはやはりデバイスになります。空間光変調器というものをずっとやらせてもらってきました。最初に取り組んだのが先程出てきたMSLMです。
 実際にMSLMを開発してみると,まあまあのモノができました。それをアメリカに販売したのですが,そこでトラブルが発生しました。
 MSLMは真空管の中に薄い結晶を入れたデバイスなのですが,電圧を印加すると結晶が割れたり,結晶表面にできる電子のイメージがぼけてしまったりといったトラブルが発生し,いくら作ってもなかなかうまくいかなくなりました。そんな時に社長と鈴木が,私がいる実験室に入ってきて,いよいよやめろと言われるのかと思いましたら「原くん,1年間トラブルシューティングやれ」と社長から命令されました。もちろん「ありがとうございます」と即答しました。
 そのころは,まだ入社1?2年目でしたが,リーダーをやれと言われました。チームには私より若い人だけではなく,年上の人もいましたので,なかなかやりにくく感じましたが,チームのみんなに助けられました。 59_3  弊社では年に1回,従業員全員が集まって行う試作研究発表会というものがありますが,当時は部門長以上を集める形で,半年に1回の年2回ありました。一応,若くともまとめ役ということで,そこで発表をしました。良い状況ではないですから,おどおどしていると,社長が1番前に陣取って「原くん,今日も針のむしろだな」と言ってくれたので非常に気が楽になりました。発表が終わると社長から,ものすごく簡単な質問がありました。その質問があるおかげでほかの人からの質問もなくなり,やり過ごすことができるわけです。
 その後1年間で何とか改良をし,販売を再開すると1億円ほどの売り上げを達成しました。そうすると社長と鈴木から「原が頑張ったからパーティーをやる」と言ってくださって,営業の人や関係者も集めての慰労会を開いてもらいました。まとめ役とはいえ,私もまだペーペーですから,時間より早めに会場に着いたのですが,もう社長が居ました。それで私の顔を見るなり「何だ,原くん。1億円ばかり売れたぐらいでこんな大それたパーティーやりやがって」と。もともと私の上司の鈴木から「社長がやってやれと言った」と聞いていますから,あの一言は本当に涙が出るほどうれしかったです。社長も鈴木も含めて上司には,人情的な人が多く,とても助けられました。
 次に扱ったのは,液晶デバイスでした。MSLMは真空管でしたので,数キロボルトという電圧が必要になり,実用的なシステムには難しい感じでした。ただ,液晶デバイスはいろいろな会社で研究されていましたから,いまさらということで,なかなか役員にOKしてもらえませんでした。ただそれがないとどうしようもないと思ったものですから,鈴木に,何とか液晶をやらせてほしいと頼み込みました。
 はじめは「役員が反対してるのに何を言っているんだ」と怒られましたが,私もしつこく何度も言っていたら最後には「やれ」と言ってくれました。
 社長は「おれには技術がわからない。だから,いろいろやりたいと言ってきてもまずは駄目だと言う。だけど3回,4回と言ってくるのなら,駄目だったとしても,一生懸命やるだろうから,何か得るものはあるはずだからOKしたんだ」とあとで鈴木から教えられました。それも,ものすごくうれしかったですね。
LCOS-SLM

LCOS-SLM

 そこから現在のにつながり,応用も広がりましたので良かったと思っています。
 実際,開発が始まるとその液晶SLMが割と早くできました。反対されたことについては,私の部下たちもみんな知っていましたから,結果を出そうと頑張った成果か,半年ぐらいですぐにできたのです。今度はトラブルもありませんでしたからいろいろなところに売りました。お客様からのフィードバックなどの情報を得るつもりで売っていました。すると,ある時社長から,敵に塩を送っていると怒られました。確かにその通りで,自分のところで応用特許までを取っておいてから売らないと,ほかの会社にいいところを取られてしまいます。しかしすでに売り始めていることもあり,若い連中には社長から怒られたことは言わずに,そのまま売りつづけました。
 社内でもなるべく社長と目を合わさないようしていたのですが,ある時に「原くん」と呼びとめられて,まずいなと思いながら社長の前に座りました。「この前の話はどうなっている」と聞かれました。それは当然デバイスを売るなということなのですが,そこはちょっとうそをついて「社長はこの前『売ってはいけない』とおっしゃいましたが,最後に『勝手にしろ』ともおっしゃいましたので,引き続き売っています」と。多分すぐにうそに気付いたのだと思います。同じ内容で社長命令違反2回目ですから,とても怖くなりました。ですが社長は「原,すぐに部屋へ戻れ。おれはトイレに行きたくなったから」と言っていただいて。
 それから2?3カ月でまた中央研究所内での発表の順番が回ってきまして,ここでうそを言ってもしょうがないですから「社長からは売ってはけないと言われましが,第4研究室の責任者として研究室の経費を稼げともいわれていましたので,おかげさまで半分稼ぎました」といいました。恐る恐る社長の顔を見るとにこっと笑って,目をつぶってうなずいてくれているのを見て,ありがたいなと思いましたね。
 実際に私が手を動かしたのは,はじめのMSLMぐらいです。次のデバイスからは測定を少し行ったぐらいです。というのも,ある時光学系を組んで一生懸命実験をしているところに,社長と鈴木がきまして,管理職がこんなことやっていていいのか? 実験を自分でするなと言われました。管理職になると研究ができなくなるのかと思いしばらく悩みました。それで,自分なりに考えてみると,社長や鈴木が言うのは「もっと広く視野を持て」ということだと気付きました。
 それで東京支店や大阪営業所の先輩に,一緒にお客さんのところに行かせてくださいと頼み込みました。快く許可を頂いてさまざまなお客様のところに同行しましたが,とてもいい経験になりました。 59_5  ちなみにそのやり取りがあった翌日の朝に,鈴木が研究室に来て部下たちに「社長から,原は実験をやるなと言われたから,原が使っていた道具は全部君たちで使うように」と言われていました。
 突然で部下たちも驚いていたと思いますが,それで逆に良かったと思います。おかげさまで優秀な部下が大勢いましたから,もう自分は細かな技術は知らないことにしようと思って,ある意味ばかになれましたから。ばかになって全部任せて,私は旗振りだけで,さまざまなデバイスが誕生しましたから。
 とはいえ,やはり研究がしたくて入った会社ですから葛藤もありました。ただ,社長命令を何回か破っていましたのでここで反旗はまずいなと思いました(笑)。ただ,営業をはじめほかの部署の人間と仲良くなれたというのは非常に良かったと思います。
 その後,第4研究室長としてプロジェクトを進めて行きましたが,しばらくして所長代理という話になりました。そうなるともう完全に,研究はできませんから研究室は次の人にお任せしました。 <次ページへ続く>
原勉(はら・つとむ)

原勉(はら・つとむ)

1952年静岡県浜松市出身 1974年金沢大学工学部電気工学科卒業 1976年金沢大学大学院工学研究科電気工学専攻修了 1976年テスコ株式会社入社研究部技術管理課(特許管理業務に従事) 1979年テスコ株式会社退社 1979年浜松ホトニクス株式会社入社(空間光変調器、光学結晶・光学薄膜、光情報処理、光計測の研究開発に従事) 1990年中央研究所発足/中央研究所第4研究室室長代理 1991年工学博士(金沢大学) 1993年中央研究所第4研究室長 2005年静岡大学客員教授(現任) 2006年中央研究所所長代理 2009年取締役就任 2010年中央研究所長(現任) 2011年~浜松電子工学奨励会理事(現任) 2011年~浜松テクノポリス推進機構理事(現任) 2011年次世代レーザープロセッシング技術研究組合監事(現任) 2011年日本学術振興会179委員会副委員長(現任)2012年常務取締役就任(現任)
現在、常務取締役,中央研究所長
●主な受賞歴等
2012年高柳記念賞

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