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社員が成長しなければ会社は成長しません(株)日本レーザー 代表取締役社長 近藤 宣之

労組出身の最年少役員が社長に就任

聞き手:本日はよろしくお願いします。大変遅くなって恐縮ですが,第1回「日本でいちばん大切にしたい会社」大賞,中小企業庁長官賞の受賞,誠におめでとうございます。まずは,ここまでに至る道筋と言いますか,どうやってこうした会社を作って来られたのか,お教えいただけますでしょうか?

近藤:ありがとうございます。日本レーザーはもともと,電子顕微鏡のトップメーカーである日本電子の子会社でした。わたしの前に歴代の社長が4人いて,全員日本電子の出身者です。バブル崩壊後に何年間も続けて業績が悪化し,1993年にはとうとう債務超過に陥ってしまいました。主力銀行からも「もう融資できない」と宣言されました。当時,銀行保証は親会社が請け負っていたのですが,最も信用があると考えられる一部上場企業の保証があっても銀行が融資しないというのは,かなり悪い状況といえます。主力銀行は「存続させる価値がない」と判断しましたが,「親会社が融資するなら,それはご自由に」ということでした。
 そこで,前任の社長と会長が,「40人の社員とその家族がいるので,破たん処理は困る。ぜひ継続してくれ」と親会社に懇願し,「自分たちは債務超過になった経営責任があるから辞めるので,若い経営者を送ってほしい」と要請しました。さらに,銀行がお金を貸してくれないので,「親会社から持参金を持って来てくれ」ということも加えました。それが, 1993年の暮れごろの話ではないかと思います。年が明けた1994年初めに,わたしに「日本レーザーに行ってくれ」という話が来まして,同社の社長になることになりました。
 就任の一つの理由は,わたしに9年ほど滞在したアメリカで英語を使って海外企業とビジネスをやっていた経験があることです。日本レーザーという会社のビジネスモデルは,海外から装置を輸入して国内に売ることですから,英語ができて,海外のサプライヤーと強い関係が持てるという意味で合っていたのでしょう。もう一つの理由は,わたしが日本電子で労働組合の委員長をやっていたことだと思います。経営破たんするような状況ですと,人心が荒廃していますし,会社には労働組合がなかったので,社員みんなが勝手なことを言って大変なことになっていたからです。わたしは20代から30代にかけて労働組合の委員長をやっていましたので,「人事管理や労務管理のプロだから乗り込んできちんと再建しろ」ということになったのです。
 また,最も大きな理由は,その時点でわたしが日本電子の最年少役員だったということでしょう。アメリカで現地の総支配人という役員ポストに就いたので,45歳で本社の取締役になりました。普通,子会社の社長になるのは本社の経験豊富な平取や常務というケースが多いのですが,日本レーザーが債務超過で再建しなければならないという挑戦的な使命があるので,「一番若いおまえが行け」ということになったのだと思います。正式には1994年5月の株主総会で就任しましたので,今年で社長業も18年目になります。

聞き手:社長として,とても大変なスタートを切ったわけですね。
近藤 宣之(こんどう・のぶゆき)

近藤 宣之(こんどう・のぶゆき)

1968年3月,慶應義塾大学 工学部電気工学科卒業。同年4月,日本電子株式会社に入社。電子顕微鏡部門応用研究室に勤務。1970年5月?12月,当時のソビエト連邦レニングラードとモスクワに駐在。1972年9月,全国金属産業労働組合同盟(ゼンキン同盟)日本電子労組執行委員長,東京地方金属副執行委員長,ゼンキン同盟中央執行委員兼任。組合役員退任後,経営管理課長,総合企画室次長等を歴任後,1984年11月に米国法人副支配人に就任。1987年4月,米国法人総支配人。1989年6月,日本電子取締役兼米国法人支配人。1993年1月,同社取締役営業副担当。1994年5月,株式会社日本レーザー代表取締役社長に就任,現在に至る。1995年6月に日本電子株式会社取締役退任後,日本レーザー社長専任。1999年2月,日本レーザー輸入振興協会会長,現在に至る。2007年6月,JLCホールディングス株式会社設立。代表取締役社長に就任,現在に至る。同時にマネジメントエンプロイーバイアウトにより日本電子株式会社より独立。2011年5月,第1回「日本でいちばん大切にしたい会社」大賞,中小企業長官賞を受賞。

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