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特別編(下)「良いものをつくるには,分からないことをひとつひとつ解き明かす必要がある」光産業創成大学院大学/浜松ホトニクス(株) 晝馬 輝夫

 前回は,浜松ホトニクス株式会社代表取締役であり光産業創成大学院大学理事長でもある晝馬氏の講演,「光による人類への未来への貢献」を特別編として掲載した。今回,弊誌インタビューにご登場いただくのは3 度目の氏に,その行動力と柔軟な考え方の基となった若き日の奮闘について話を伺った。

重責を負った17歳

 私の若い頃っていうのはね,個人的なことなのですけど,親父が早くに死んでしまって。それで,長男だったからオフクロも入れて家族8人を食わせていかにゃならん,となったのは私が18 のとき。数え年の18 だから,今でいう17 歳だな。
 当初は親父が勤めていた会社からもらった退職手当があって,当時(昭和18 年)の生活水準で金を使っていくらなら,私が40 歳になるくらいまでは何とかなるだろうという勘定で。まぁ,子供心の勘定だったから本当のところは分からないけど,そんなに切迫感は無かったわけです。それが戦争に負けてひどいインフレになってしまって,以前は1年分の生活費だった額が,ひと月で飛んじゃうような世の中になった。あれは私が浜松高等工業を卒業した年の3 月でしたかね,最後の預金を下ろしに行き,それで一銭も無くなった。
 その頃,うちのオフクロの親父というのが帝国製帽(現テイボー株式会社)の社長をやってまして。固い爺さんで,あんまり悪いことはやらなんだとみえてそんなに金は無かったみたいですけど(笑),それでも心配してくれてね。浜松に“丸倉まるそう”っていう倉庫会社があって,そこが板屋町の広小路の駅の近くに九尺二間の闇市みたいな簡単な店を造って貸し出しているっていうのを聞いてきて,「保証人には自分がなるから,お前,そこで商売をやれ」と言うのです。その頃は勤め人になっても8人食わせられるような給料をくれる所はどこにもありませんでしたから,私も「さよか」と(笑)。

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